小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

908 2011年の暮れに思う 震災の「東日本よ」

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今年も1年を回顧する時期になった。3月11日の東日本大震災を置いて、語るべき言葉はない。以下は「東日本よ」をキーワードに書いた震災被災地・被災者への私の思いである。  「悲劇」が日本列島を襲った。マグニチュード9.0という巨大地震。それに続く大津波が太平洋岸の街々をなめ尽くし、原発事故が追い打ちをかけた。悲痛な声が各所で飛び交った。あの日、首都東京は「光の春」の 陽光が差し込み、穏やかな午後を迎えていた。午後2時46分という巨大地震が発生した「あの時」のことをだれもが忘れることはできまい。 ビルの中の6階に いた。これまでの人生でこれほど激しく長い揺れを経験したことはなかった。恐怖であった。自宅に帰ることができない「帰宅難民」の一人になった。被災地で は多くの人たちが津波に流されて亡くなり、行方不明になった。その数は1万9386人(12月2日現在)に達する。ことしの干支は「ウサギ」だった。方位 は東の方向を指し「草木が地面を覆う」が由来といわれるが、皮肉にも東日本が大災害に見舞われ、草木を含めて居住空間は根こそぎ奪われてしまった。被災地 は酷寒の冬を迎えた。仮設住宅や避難所で暮らす人々の健康を祈らずにいられない。  「がれき」が被災地を覆い尽くしていた。その 中を自衛隊、消防、警察の人たちが懸命に救助活動を続けた。数多くのボランティアが被災地に入りがれきを取り除き、被災者の心の支えになった。がれきは 「かわらと小石。破壊された建造物の破片」と「値打ちのないもの、つまらないもののたとえ」という2つの意味があるという。 津波で流されたがれきの中に は、実は大切なものが数え切れないほど含まれていた。だから「がれきと言ってほしくない」という被災者の思いを聞いて、言葉の使い方の難しさを痛感する。「がんばろう日本!」も、震災後合言葉のように使われた。しかし、原発事故でいまも避難を続ける福島の人たちに「がんばろう!」と声を掛けることにためらいがある。  「心身ともに限界に近い」状況に多くの被災者 が追い込まれた。3.11から9カ月。被災者支援のために、多くの医師や看護師が被災地に入った。ある医師は言う。「これからは心のケアが重要です」と。 阪神淡路大震災後、被災者の孤独死、自殺が相次いだ。現在、日本は13年連続して自殺者が3万人を超えるという憂慮すべき時代が続いている。「人命は地球 より重い」(ラテン語 vita hominis gravior est quam orbis.から取られた言葉らしい)といわれるが、昨今、このような言葉は通用しないのではないかと思うほど、日本人の命は軽くなっている。  「日本は世界一安全な国」といわれた。だが、 3.11が発生する前から、その安全神話が崩壊しているのではないかと言われ始め、津波原発事故がそれを決定的にした。戦後66年が過ぎた。敗戦の混 乱、高度経済成長、バブル経済とその崩壊、失われた10年を経て、現在に至った。国際的に見て日本は「平和で安全、そして豊かな国」に属している。だが、 大震災で、日本を訪れる外国人観光客は急減した。原発事故に絡んで「風評被害」という言葉が登場した。放射性物質が日本全土を覆っているのではないかとい う不安から、外国人の多くは日本訪問を取りやめた。 国内からも東北への旅行者が激減し、東北、関東の農産物、水産物が売れなくなるという事態が相次いだ。 それが風評被害である。この背景にあるのは原発事故に対する政府、東電の発表が後手に回り、発表自体も信用できないという国内外からの疑惑の目ではない か。「安心、安全な…」という言葉が昨今大安売りのように使われる。そんな言葉を使わなくとも、穏やかな日常を過ごせる日本を取り戻したい。  「微笑みの国」はタイの代名詞である。家族はタイが大好きだ。日本人もタイの人たちにひけをとらないほど、日常生活で微笑みを忘れない。日本に住むドイツ人学者は、日本人の微笑は幸せだけを表したものではない、と言っている。たしかにそうだ。失敗したときや悲しいときにも日本人は微笑を見せる。苦笑ともいえるのだが、それが外国人には謎のように思うのだろう。大震災は多く の人から微笑みばかりか涙をも奪った。つつましくて忍耐強い東北の人たちに、微笑みが戻るのは容易なことではない。  「んだ!」東北の多くの地域では「そうです ね」「そうだね」を方言でこう言う。物事を肯定する意味で使われるが、ことしは「んだ!いやな年だったね」と、心に深く突き刺さったとげのように、多くの 人たちに記憶されることは間違いない。原発事故によって故郷を離れるだけでなく家族が離散したケースも少なくない。 哲学者の梅原猛は、「日本の深層」とい う本の中で東北から偉大な芸術家(石川啄木宮沢賢治棟方志功太宰治志賀直哉斎藤茂吉ら)が出たことを紹介し、「東北の人たちは感情表現が豊かな のだ」と分析した。自らも被災した詩人の和合亮一は、震災・原発事故後の福島の姿を詩に書き続けている。芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久も「福島に生きる」と いう本を書いた。被災地の厳しい現実と格闘しながら、感受性豊かな子どもたちが東北を立て直す存在に育ってほしいと思う。  「夜明け」は、必ずやってくる。どんな絶望的 状況にあっても、新しい朝がきて私達に生きていることを実感させてくれる。大震災は将来に希望が持てず、救いようがない「世も末」という時代を再現した。 被災地の人々は何度もこの言葉が頭をよぎったかもしれない。原発事故で避難を続ける福島の人たちに、明るい未来は期待できないのが現状だ。河北新報の気仙 沼総局長は、震災翌朝の光景を「白々と悪夢の夜は明けた。湾内の空を赤々と染めた火柱は消えていたが、太陽の下にその悪夢の景色はやはりあった」と書い た。 それは、この世の現実だったのだ。そうした絶望で折れそうになる被災者たちの心を支えたのは国内外からの支援であり、ボランティアたちの行動力だった。江戸時代から日本には「旅は道連れ世は情け」(旅には連れがある方が心強いように、この世の中を生きていくには互いに支え合う人情が大切という意味) という言葉があった。現代の「絆」と共通するもので、ボランティアたちによって培われた絆の力は、被災地に新しい「夜明け」をもたらしたのだと思う。 大震災に見舞われた2011年も残り少ない。被災者に幸あれと願いながら年の瀬を送りたい。 (写真は12月10日夜にわが家の庭から見た月食