小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

790 通じなかった現代の「稲むらの火」 想像を絶する巨大地震と大津波

稲むらの火」という大地震の際の有名な話がある。1854年12月24日(安政元年11月5日)安政南海地震(M8・4)が発生した際、紀伊国広村(現在の 和歌山県広川町)で、醤油製造業を営んでいた濱口儀兵衛(後の梧陵)が津波をくることを予感し、稲むら(稲の束)に火を付けて高台から浜周辺にいる村人に知らせ、多くの人々が高台に避難し難を逃れたという実話である。

この話は戦前の国語の教科書に載り、最近は人形劇として聾学校などで公演されている。当時としては緊急時の優れた情報伝達手段だった。それから、150年以上が過ぎ、情報伝達手段は格段に発達したにもかかわらず、今回の地震による大津波に想像以上の人たちが巻き込まれてしまった。

気象庁は今回の地震についてこれまではM8・8としてきたが、きょうになってM9・0だったと修正発表した。マグニチュード9以上の巨大地震は、過去にはそう多くはない。M9.5の チリ南部地震 (1960・5・22 )、 M9.3の スマトラ・アンダマン地震(2004・12・26)、M9.2 のアラスカ地震(1964・3・28)、M9.1の アリューシャン地震(1957・3・9)に次ぎ、 カムチャツカ地震(1952・11・4) と並ぶ観測史上でも並ぶ超がつく巨大地震だ。

地震直後にはテレビやラジオ、インターネット、防災無線など現代の考えられるだけの情報手段で津波の襲来と避難の呼びかけがあった。しかし、その呼びかけにもかかわらず、東北地方の太平洋沿岸部で生活するおびただしい人たちは避難が間に合わず、濁流に巻き込まれてしまった。

稲むらの火時代に比べたら、格段に素早い伝達が行われたのに、津波の速度が予想以上に高くて(専門家によると10メートルという)速い津波が街々を襲ったのだ。宮城県の美しい町、南三陸町の住民の多くがいまだに連絡が取れない。宮城県警本部長は、対策会議で県内の犠牲者は1万人を超えると見通しを明らかにしたという。テレビの映像や新聞の写真を見ても津波に襲われた各地の惨状は目を覆うばかりであり、阪神大震災を超える大変な被害になるのは確実なようだ。

14日から、東京電力管内では地震によって原発や火力発電所が停止したため、管内で計画停電を始めるという。菅首相は、記者会見で「戦後65年で最大の危機であり、この危機を乗り越えていくことができるかどうか、すべての日本人が問われている」と語った。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(M7・9)は、日本災害史上最大といわれ死者・不明者が14万人以上に達した。震災は当時景気に陰りが見えた日本経済に大きな打撃を与えた。そして、昭和の大恐慌へと続くのだ。いまの日本も政治、経済とも不安定な時代だ。関東大震災後の状況を再現しないためにも、危機意識を共有して救援と復興に向けて動きたい。