小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

373 新聞記者の原点 本田靖春の「警察(サツ)回り」

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ある報道機関で社会部記者をした友人がいる。彼の話を耳にたこができるくらい聞いていた私は、この本を読んで知人の若い記者時代を思い出した。ノンフィクション作家として独立するまで本田は読売新聞の社会部記者をしていた。そのスタートは、サツ回りと呼ばれる警察担当だ。 上野警察署の近くにあったトリスバーが、若い記者たちの溜まり場になり、このバーのママである「バアさん」との交流が始まる。中でも濃密な付き合いは朝日で天声人語を担当した深代惇郎と本田だった。かつてのサツ回り記者は伸び伸びとしていたという。知人の何世代前の本田の時代はさらに無頼な生活を送った記者が多かったようだ。そうした姿がこの本には、随所に描かれている。 本田の本と離れるが、少し知人の話を書く。彼は社会部に配属になって新宿署を担当した。警察から歩いて5分くらいのところに、ママの名前をとった「おのぶ」という小さなバーがあった。そこが彼たち新宿担当のサツ回りの溜まり場だった。 本田の時代よりは飲む酒も少しよくなり、記者たちはサントリーの白を飲んだ。当時、新宿署には朝日、毎日、読売、東京、産経の5つの新聞と、NHK、共同通信時事通信の計8社が加入していた。東京新聞だけがなぜかベテラン記者が配置されていたが、そのほかは地方勤務を経験した30歳前後の社会部1年生だった。 彼らは昼食には、近所のウナギ屋に通った。しぶいおやじがいて、注文を聞いてからうなぎをさき、炭火で焼く。長い待ち時間は、ビールを飲む者もいる。夜も連れ立って「おのぶ」に顔を出した。ママはけっこう顔が広くて、この店には筑紫哲也氏もときおり姿を見せていた。新宿は、大きな事件がけっこうあり、飲んでいてもポケットベルで呼び出され、現場取材に行くことも珍しくなかったそうだ。 店にはママのほかに新潟出身の「おけいちゃん」と呼ばれた若い女性がいた。若い記者の何人かはこの「おけいちゃん」目当てに店に通っていたという。閉店まで飲んで、ママやおけいちゃんと別の店に飲みに行くことも少なくなかった。ちょうどロッキード事件が起きて、記者たちは交代で等々力にある右翼の児玉誉士夫の家などに張り込みに行くことが多かったが、時間があると「おのぶ」に行く。サツ回り時代が終わっても、記者たちは溜まり場として通い続けた。 10年ほどが過ぎ、ママから店をやめるという通知が届いた。かつての記者たちが集まり、ママのために送別会を開いた。おけいちゃんは独立していて「おのぶ」を去っていた。ママは山陰の島根か鳥取の出身と聞いた。結婚して子どもが生まれたが、夫とは別れ銀座のクラブに勤めながら子どもを育てた。和服のよく似合うきれいな人だった。暗い影はなく、記者たちの話をよく聞くので若い記者たちからは母親のように慕われていたという。 彼女の1人息子は成長すると、アメリカに住んだ。優秀な彼は一人暮らしの母親を気遣って、東京を引き払い一緒に住まないかと何度も言ってきたという。60歳になってその誘いを受けることを決心し、店を閉めることにしたというのだ。送別会でみんなが思い出話をして世話になったとあいさつすると、彼女が涙ぐんでいたのを知人らは忘れられないという。 本田の本の「バアさん」と違うのは、その後「おのぶ」のママと再会した記者はいなかったことだ。彼らはこのところ、毎年一度は集まり、旧交を温める。その席でおのぶのことが話題になるが、ママやおけいちゃんの消息はだれも知らない。ママはアメリカで息子や孫たちと仲良く暮らしているに違いないと、サツ回り仲間みんなが信じているそうだ。 やや長くなった。本田の本である。深代は天声人語担当中に病に倒れて亡くなる。その後、本田とバアさんの交流は続くが、バアさんもがんに侵されてしまう。バアさんが亡くなると本田は葬儀の一切を取り仕切る。父は台湾出身、母は日本人と言っていたバアの出自は、うそ(真相は両親とも台湾の人)だったことをバアさんの死後知った本田は、台湾に遺骨を運ぶ。 既に新潮社で文庫本になっていたこの本が、最近「ちくま文庫」として再出版された。昭和30年代の記者たちの姿を追いながら、当時の社会を記した作品は、映画の「3丁目の夕陽」をも彷彿とさせ、読んでいて懐かしさを感じるのは私だけではあるまい。 深代、バアさんの後を追うように、本田も2004年に亡くなった。本田はこの本以外にも「誘拐」や「不当逮捕」、遺作の「我、拗ね者として生涯を閉ず」を書いた。権力におもねることなく、筋を通す生き方がどの作品からも伝わる。世俗的成功は望まず、精神の豊かさと言論の自由を大事にしようとする本田の姿勢を、現役の記者たちに受け継いでほしいと思う。