306 肘折温泉にて コーヒーの思い出(2)
「お客さん、どうしたのですか」
お客さんというからには、この宿の女中さんかなと、私は顔を上げた。しかし、目の前にいる女性は、どうもそんな感じはしない。
どこか垢抜けている。年齢は22、23歳くらいか。さわやかな顔立ちをしている。私の疑問はすぐに解消した。ほかの従業員が「お嬢さん」と呼んだのだ。彼女はこの宿の娘さんだった。
コーヒーが飲みたくて、喫茶店を探したけれど、見つからずに帰ってきたところだというと、彼女はくすくすと笑う。こんなところに喫茶店なんてあるもんですか、という。それを聞いて、私はあきらめることにした。
「仕方がない、寝ることにするか」。私は独り言をいって、部屋に戻ろうとした。すると、娘さんが私の背に向かって声を掛けた。「もしインスタントでよかったら、私がおれてあげますわ。部屋へどうぞ」と。コーヒー飲みたさに、私はこの言葉に甘え、図々しく娘さんの部屋に入り込んだ。
彼女がいれてくれたコーヒーは、どうしてこんなにうまいのか、というほどおいしかった。それは単なるインスタントコーヒーの味ではなかった。それまで飲んだどんなコーヒーよりも優れていると思った。私は香ばしい香りを楽しみながら琥珀色の液体を飲んだ。
話を聞いてみると、彼女はつい最近まで仙台にいたのだという。この宿の一人娘で、いずれは婿養子をとってこの宿を継ぐために仙台の女子大を卒業して、家に戻ってきたが、退屈でしようがないという
確かに、若い人が住むにはこの村は寂しそうだ。仙台のような大都市に比べたら、刺激は全くないといっていい。仙台の思い出を話す彼女の口ぶりは、本当に楽しそうだった。
私はコーヒーをごちそうになって嬉しかったし、彼女は懐かしい仙台の話ができたので退屈しなかったようだ。翌朝、私は出発の間際、宿の売店でこの娘さんからこけしを一つ買った。中には米が入っており、振ってみるとカラカラと音がする。その顔は、娘さんにどこか似ていた。
(続く)