小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1281 hana物語(23) 月を見る夜

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 2013年9月19日は旧暦8月15日の満月で、中秋の名月の日でもあった。 15夜とも呼び、昔から月がきれいに見える季節である。この夜に月が雲に隠れて見えないことを「無月」、雨が降ることを「雨月」というそうだが、幸い、数日にわたって好天が続き、この夜も名月が私たちの頭上に輝いた。

 庭に出ると、肌寒い。hanaが眠る庭にも月明かりが注いでいる。 椅子に座ってワインを飲んだ。hanaも私のそばで名月を見上げているような錯覚を抱いた。 「十五夜の雲のあそびてかぎりなし」。

 客観写生に徹した句「瀧の上に水現れて落ちにけり」で知られる後藤夜半の俳句である。山本健吉編「句歌歳時記 秋」は「仲秋の名月の夜。この日はかくべつ雲が気にかかるものだが、雲はだだっ子のように、遊んで遊んで、月にちょっかいを出そうとする。仕方がないが、それもまた面白いといった気持。

『雲のあそびてかぎりなし』とは、面白い。月見の席の人たちの、不安な心の照りかげりまで連想させる」と、解説している。 hanaがいなくなって、51日目の夜だった。 遺骨も庭に埋葬したので、hanaは写真のほかは家族それぞれの心の中に大きな位置を占める思い出の犬になっている。

 遺骨を埋葬した日は、台風の影響で大雨が降った。しばらく様子を見て、晴れ間が出たのを見計らい、別れの儀式をやった。それだけに15夜は「無月」や「雨月」にならないよう願った。昼、彼岸花が咲いているのを見た。夕方になるとコオロギが鳴き、庭にもその音が響きわたった。空に雲はなく、月はひときわ輝いて見えた。

 家族が旅行などで留守をしたとき、夜になって帰宅した私がhanaの散歩をさせたことが何度もある。いつもの散歩コースの調整池周囲の遊歩道は街灯がない。暗いはずなのに足元は明るい。ふと、空を見ると満月が浮かんでいる。hanaは私に寄り添うように歩いている。「早く帰って、ごはん、ごはんだ」と話しながら、私たちは家路を急ぐ。いまは懐かしい思い出だ。

 調整池の周りの斜面は草地になっていて、ススキもかなり生えている。15夜の日の夕方、私は妻の頼みでここからススキを切って持ち帰った。妻はそのススキと梨とお団子代わりのまんじゅうをhanaが眠る庭が見える居間に飾った。

 hanaが生きていたら近くに寄り、食べたいとねだっていたかもしれない。それほど、hanaは私たちが食べるものを何でもほしがったのである。だが、もうそうした姿を見ることはない。月は東から次第に中天に移り、その光はhanaが眠る庭を優しく包み込んだ。 24回目へ