小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1027 東日本大震災被災地にて 自然の脅威を乗り越えて

画像

 宮城県石巻、女川という東日本大震災の被災地にも時が流れ、あれから1年7カ月が過ぎた。被災地はどのように変化しているのだろうか。天童荒太の「静人日記 悼む人Ⅱ」をかばんにしのばせて被災地へ出向いた。

 被災地に立って、日本の隅々まで歩いた民俗学者宮本常一が、故郷四国の島、周防大島を旅立つ際、父親から聞いたという「生きる上での10カ条の指針・教訓」のうちの2つ目を思い浮かべた。 宮本の父親が息子に示した指針・教訓の2つ目とは―。

《村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところに上って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあった ら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行ってみることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようことはほとんどない》

 私流の解釈。

《広い視野で物事を見、全体状況を把握していればどんな厳しい局面に立っても、自分の道を歩いて行くことができる。それが俯瞰なのである》

 仙台から、大震災から立ち直ろうとする人々を地道に取材し続けている旧知のジャーナリスト・元NHK記者、松舘忠樹さんの車に便乗し、石巻、女川に入った。途中、この震災の象徴的ともいえ石巻市立大川小跡地に行く。校庭に避難していた児童70人が亡くなり、4人が行方不明、教職員も9人が死亡、1人が行方不明になった。校庭の背後にある山に避難していれば、と思うのは結果論である。

 緊急事態の折に、人間が命を守るためにどうすべきか。慰霊碑に手を合わせながら複雑な思いにとらわれた。校庭の奥ではボランティアたちが花壇を作る作業をしていた。廃墟になった校舎を見ていると、在りし日の子ども達の歓声が聞こえるようだった。

画像
画像

 石巻津波の被害は甚大だった。それを実感したのは雄勝(おがつ)地区の高台・船戸にあるそば店から地区を見た時だ。松舘さんは言う。

「あそこにはいろいろな建物があり、民家もあった」と。だが、そこには幾つかの荒廃した建物があるだけで、あとはがれきが撤去された虚しい街跡だけしかない。 それでも千葉正人さん(60)は、高台にボランティアの手を借りながら、ログハウス風のそば店をつくりあげた。

 千葉さんの店には石巻日日新聞発行の石巻市の震災前(2002年ごろ撮影)と震災後の上空から撮影の写真集が置いてあった。そこには美しい自然に囲まれた多くの街が巨大津波によって消えてしまったことが記録されていた。

 千葉さんの店は未完成のため営業は土日だけだそうだ。北海道産という新そばを使った「もりそば」を食べた。涙が出るほどのおいしさだった。天井の一部からはまだ空が見える。建物は間もなく完成し、11月からは本格営業するという。冬はまきストーブ使うというから、風情あるおそば屋さんになるのではないか。

画像
画像
画像

 そばを食べた後、この地区特産の石を材料にした「雄勝硯」(おがつすずり)の遠藤弘行さん(58)の工房を訪ねた。この地区には硯に適した石が産出されるため、硯製造が伝統産業として続いていた。

 しかし多くの人たちは沿岸部に住み、津波被害をもろに受け、伝統産業は風前の灯になっている。遠藤さんはそんな雄勝硯を守ろうと、孤軍奮闘しているのだ。小さな箸置き買った。それには遠藤さんが心を込めて掘った梅の花があった。遠藤さんは伝統産業を守ろうと高台に小さな工房を構え、黙々と手を動かしている。工房には、津波の跡地から見つけたという大きな雄勝石が飾ってあった。

画像

 女川に行くと、私の心はさらに暗くなった。水産業の復興を目指した、女川港に氷点下30度という大型冷凍庫を備えた多機能水産加工施設が20億円というカタールからの巨額の支援によって完成した。

 サンマ漁最盛期にこのような施設ができたのは喜ばしいことだが、それが外国からの支援というのだから、悔しいと思う。国が巨額の復興予算を組みながら、それを各官庁が勝手に流用してしまった。本来ならこうした復興のモデル的施設は国の予算で建設すべきだったと思うのだ。 女川の中心部を望む高台に女川町立病院がある。海抜16メートル。ここにも1階まで水が押し寄せた。

 敷地から中心部を見る。そこはやはり廃墟だった。横倒しになった建物が残っている。それが人々の暮らした証だったのかと思うと、悲しみが深まる。

画像

 宮本常一の父親の「高いところに上がって行って見よ」を再度思い浮かべながら、女川の街を見た。私は松舘さんに言った。「故郷を出て行った人たちが、戻ってこの光景を見たら、どう思うでしょうか」と。

 たぶん、絶句するに違いない。 大川小だけでなく、宮城県の各地には津波で犠牲になった人たちを慰霊する碑文があった。それが、大震災から1年7カ月という時間の経過を感じさせるのだ。 自然は人間の営みを奪い取り、そして何もなかったように美しい光景に復元している。そんな自然に対し人間の力は弱い。

 それでも、自分たちが生きてきた場所の再生を願いながら活動を再開した千葉さんや遠藤さんの淡々とした表情を思い出したら、私にも力が湧いてきた。

画像
画像

 (静人日記 悼む人Ⅱについては後日書きます)

 写真 1、大川小に残された壁に残された宮沢賢治の詩 2、大川小の祭壇 3、変わり果て大川小の校舎 4、ログハウス風の千葉さんのそば店 5、千葉産の店に展示された泥の中から見つかったそばに関する案内 6、千葉さんの店から見た雄勝の中心部は廃墟だった 7、遠藤さんの硯工房 8、女川町立病院から俯瞰した女川の中心街。津波でなぎ倒された建物がいまも残っている 9、そば店の千葉さんと松舘さん 10、遠藤さんから雄勝硯の話を聞く松舘さん