小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1015  40年前の国交回復は遠い過去に あるチャイナウオッチャーの回想記

  ことしは日中国交正常化40周年になる。しかし、尖閣諸島をめぐる対立が先鋭化していることを背景に中国国内の反日デモが暴徒化し、両国間の緊張が高まっている。中国問題をライフワークにしている知人の中島宏氏(元共同通信北京特派員)はこのほど、40年前の日中国交回復当時を回想した「北京で見た日中国交正常化」という一文を書いた。

  その回想記を読むと、当時の両国関係者が強い熱意で日中関係の正常化に動いたことが分かる。それから時を経てその熱は冷め、両国関係は危うい時代を迎えている。

  中島氏は、1972年初め北京特派員として2度目の赴任をした。このあと同年2月のニクソン米大統領の訪中、これに続く田中角栄首相の訪中と日中国交正常化という歴史的ニュースを取材する幸運に恵まれた。

  回想は国交正常化へと動いた日中双方の舞台裏の動きを振り返り、「高齢、病身の毛沢東周恩来両首脳の対日関係樹立を目指す強い熱気が後押しし、一方、日本側では前年のニクソンショックキッシンジャー国務長官の極秘中国訪問のあと、7月15日にニクソンが中国訪問を予告)を受けて、急激に日中国交回復を求める動きが強まり、今では想像できないほど親中ブームに沸いた」ことなどが国交回復という「歴史の扉」を開いた背景にあったことを紹介している。

  回想は、日本側の政治の動きや訪中時の田中首相周恩来首相とのやりとりを詳しく紹介し、田中首相の「ご迷惑発言」の波紋にも触れている。田中首相は、9月25日の周首相主催の歓迎宴で「過去数十年にわたって、日中関係は遺憾ながら不幸な経過をたどってきた。この間、わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、深い反省の念を表明する」とあいさつした。

  これに対し中国側から「軽い謝罪だ」と不満の声が上がり、のちの周首相との会談で「ご迷惑は誠心誠意、申し訳ないという心情」と弁明し、国交正常化に当たっての共同声明では、大平正芳外相の主導で「中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という明確な言葉になったという。中島氏によると、この田中首相の弁明のくだりは、なぜか外交文書では省略化されているそうだ。

  日本側の立役者が田中首相だったのに対し、中国側の中心人物は膀胱がんに侵された周首相だった。中島氏は周首相の日本に寄せる情熱が印象強く残っていると回想し「この年の5月18日には膀胱がんが確認されており、日中正常化が生涯最後の大仕事となった。周首相の日中国交正常化で果たした役割、功罪については、まだ知られていない部分も少なくないはずだ。正常化の過程は近現代の日中関係史の大きな遺産であり、様々な角度から研究と分析が必要だろう」と書いている。

  9月29日に発表された共同声明には「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くことになろう」という文言もある。何をおいても、国交の正常化へと突き進んだ両国首脳の熱気がこのような言葉になったのだろう。

  それから40年が過ぎ、尖閣諸島という領土問題を契機に両国間は冷え切ってしまい、両国関係は共同声明とは程遠い姿に逆戻りした。

  中島氏は「40年前の回想から現実に戻ると、日中国交(回復交渉)の経験は、あまりにも遠い過去になってしまった」と書き、さらにその背景についても考察した。

 ≪「日本自身の変化というよりも、わずかな期間での急激な経済発展で、急膨張する中国の変化によるところが大きい。日中国交は、毛、周両首脳の長年の戦略の影響力が強く、他方、日本側も強い国内世論を背景に独自の外交で応じた。この40年をみると、中国は既に当時とは体質、中身も大きく変化し、日本が新たな戦略での臨むべき時に、それを欠いていることも昨今の混迷の原因だ」「日本の声が小さく、中国内にはほとんど届いていない。日本は特に“周恩来の遺産”に頼りすぎ、リアルな日中関係の構築に努めなかったつけが回って来ているのかもしれない」≫

  それにしても、昨今の中国側の反日デモの拡大は異常である。中国外交部の洪磊副報道官に至っては、日系企業が暴徒化したデモ参加者に襲撃され、商品が略奪、破壊された事態について「その責任は日本が負うべきだ。事態が深刻化するかどうかは日本側の対応にかかっている」とコメントしているのだから、語るに落ちたとしか言いようがない。

 一方で、反日意識のシンボルともいえる柳条湖事件(1931年9月18日、旧日本軍が満鉄の線路を爆破、日中う15年戦争の発端になった)記念日直前に尖閣の国有化に踏み切るという日本政府の無神経ぶりも、騒ぎに油を注ぐものとなった。40年前の共同声明の精神は、日中双方から失われてしまったのだろうか。ナショナリズムのぶつかり合いでは、何も解決はしないと言うのに、いまはそれがむき出しになっている。つまらない時代になったものだ。

  ▼ブログ筆者注

  きょう中国では81年前に起きた柳条湖事件の記念日だった。中国国内では日中国交正常化以来、最大といわれる反日デモが行われた。私が満州事変の引き金になったという柳条湖事件の現場を見たのは28年前の1984年6月のことだった。長くなるが、当時のメモを以下に記す。

《「不忘9・18記血泪仇(9月18日を忘れず、血と涙の恨みを心に刻みつける)―。日本軍への恨みの言葉を大書した文字が消えかかっていた。先端が3つ又に分かれた長さ5メートルのコンクリートの碑が横倒しになっている。

  瀋陽市の中心部から車で約15分。瀋陽ハルビン間の鉄道わきの小さな広場。日本軍が当時の満鉄線路を爆破させ、満州事変の糸口を作った柳条湖事件現場跡である。当時、日本側は「柳条溝事件と呼んだが、実際の爆発地点の名を取って中国側は「柳条湖事件」と呼ぶ。

  記念碑は昭和6年9月18日の事件後、日本軍が建立した。終戦後、中国人が倒し、その横腹に中国民衆の恨みを刻み込んだのだ。

  案内してくれた瀋陽市外事弁公室の尚玉庭さんによると、200メートル北寄りの草むらにあった碑を移したのは1982年8月で、同時に瀋陽市当局は碑の由来を説明する看板を立てた。「歴史の教訓を読み取る場所として、保存される価値があるのです」と、尚さんは言う。

  ここには日本人が時折訪ねるだけで、瀋陽市民はほとんど足を止めない。だが、市民はかつての悲惨な体験を忘れていない。当時を振り返る尚さんの口調には、厳しさが漂う。尚さんは戦前、吉林省の炭鉱労働者だった。日本軍による強制労働に苦しみ、1トンの石炭を掘るのに、10人の割合で中国人の命が消えたというのだ。

 「あの歴史は済んだことですが、忘れることも繰り返すことも許されないはずです」。この尚さんの言葉に、近くにいた若者が大きくうなづいた。私たちを取り巻いていた2、30人の見物人の一人で、彼は私に「この現場をよく見て行ってほしい」と注文した》

 メモはこのあとも続くのだが、割愛する。メモを読み返して思ったのは、当時の静かな日中関係に比べると、状況はどんどん悪化し、政治の責任は限りなく大きいということである。