小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

254 栄枯盛衰を現代訳で 吉村昭の平家物語

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 吉村昭は、新聞記者以上に深い取材を重ねて小説を書いた。フィクションの形をとってはいるが、ノンフィクションとの境界すれすれの作品が多かったと思う。その吉村昭が琵琶法師によって語り伝えられたといわれる軍記「平家物語」を現代訳にしたのがこの作品だ。

 最近、たまたま書店で手に取った小冊子で『「熊谷寺」巷聞』(長谷部儀治)というエッセーを読んだ。埼玉県熊谷(くまがや)市にある古刹に関しての興味ある話が紹介されていた。 熊谷市にあるので、多くの人は」「くまがいじ」「くまがやでら」あるいは「くまがやじ」などとと読むだろうが、「ゆうこくじ」が正しいという。

 鎌倉時代の武将、熊谷次郎直実が出家し、この寺を開いたが、いまはなぜか山門は閉ざされ、「檀信徒以外は立ち入り禁止」の立て札があるそうだ。 平家物語は、あらためて書くまでもないが、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という書き出しは、だれでも知っている。

 平清盛の全盛時代、その死から始まった源平の戦い、そして平家一門の滅亡までの70年にわたる歴史を記している。 この時代の戦では相手の首を切り取った。次から次に人の首が切られる場面が登場する。人はここまで残酷になれるのかと思う。そうした歴史を経ながら、いつの世にからも争いは消えない。吉村の平家物語でも、熊谷直実が「一の谷のたたかい」で平清盛の弟の息子の敦盛を討つ話がもちろん入っている。

 直実は17歳という若い敦盛を討ち取ったあと、戦いの非情さと俗世の無常を感じて出家、のちに蓮生上人といわれた。この蓮生上人の立像が熊谷寺の境内にあるが、なぜか足元で兜を踏みつけているのだという。 JR熊谷駅前には、鎧兜を身に着けた直実の銅像がある。同じ熊谷市内で2つの銅像は何を意味するのか。どちらが直実として本意だっただろうか。私は熊谷寺の方だと思う。

 ちなみに、熊谷寺が一般人を立ち入り禁止にした理由の背景には戦争がある。 長谷部によると、太平洋戦争末期に米軍は各地にB29で空襲を続けた。その最後になったのが熊谷だった。玉音放送前夜の8月14日深夜、熊谷は日本で最後の空襲を受けた。多くの家が焼かれ、罹災した人々が寺に救いを求めた。

 住職は人々を助け、炊き出しをして、本堂の一角を提供した。落ち着きが戻った1ヵ月後、罹災者は寺を出て行った。しかし、本堂は無残に荒らされていた。 修理を市に相談すると、冷たい返事しかなく、住職は私財を投じて寺を再建、以来門前に立ち入り禁止の立て札を置いた。しかし1年の限られた日に、自由参拝として開放することがあるそうだ。

 吉村は冒頭の書き出しを「祇園精舎の鐘の音には、諸行無常の響きがある。栄えた者も、おごりたかぶればかならずほろびる。それは、吹く風の前のちりのように吹きとんでしまう。まことにはかなく、それが世の習いなのだ」と訳した。 この後も、読者は平家の悲劇の物語を分かりやすく、しかも手に汗をにぎる思いで読み続けることができるはずだ。