小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

213 「君のためなら千回でも」 凧揚げの風景に思う

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君のためなら千回でも」という翻訳小説(早川書房刊、カーレド・ホッセイニ著、佐藤耕士訳)がいま売れているという。恋愛小説のような題名だが、戦火に包まれたアフガニスタンアメリカを舞台に、少年時代に親友を裏切りその人生を破壊した男が償いのためアフガンへと旅立つ物語だ。

 世界的なベストセラーになり、映画化もされた。権謀術数をめぐらす政治家や企業による消費者への裏切り行為が横行している混沌とした時代だからこそ、この小説が多くの人の共感を呼んだのだろうか。 正月、近くの公園では凧を揚げている親子の姿が目についた。実はこの小説でも、子どもたちが凧を揚げて遊ぶ。

君のためなら千回でも」は、主人公が揚げた凧を拾いに行く親友の言葉である。落ちてきた凧に向かってこう叫ぶ親友を、主人公がなぜ裏切ってしまうのだろうか。 だれでも大なり小なり、友だちを傷つけてしまった経験があるはずだ。

 ふとしたはずみで話した一言が友だちを苦しめ、悲しませてしまう。その結果、大事な友だちと距離を置く結果を招くのである。 子どものころ、凧揚げは得意ではなかった。凧は買ってもらえないので、自分でつくる必要があるが、不器用なため凧をつくることは不可能に近かった。そのために凧を揚げることより、手製の竹スキーでツルツルに凍った坂道を滑ることに熱中していたのだった。

 そんな時代、私には「君のためなら千回も」と言ってくれる親友はいなかった。遊ぶのはほとんど独りで、孤独には慣れていた。 だがここ数年、少年時代の友人たちとの交流が復活したのである。友人たちは、みんなの子どものころをよく覚えている。酒の席では、それぞれが子ども時代から歩んできた道を自由に話し、尽きることはない。それが新たな生きがいになっているのだから不思議なものだ。

 友情、裏切りというテーマから「こころ」という夏目漱石の作品を思い浮かべる。大正時代、朝日新聞に連載されたこの小説は、友人から恋人を奪った「先生」の遺書を通して明治に生きた日本人の利己心を追った漱石の代表的な作品といわれる。時代や人種、生活する国や環境が変わっても、人間の思考は大きな差はないことを漱石とホッセイニの作品は示しているようだ。

 上下2冊の作品だが、特に下の展開が劇的である。読み終えるのが惜しくなるような物語だ。このようなスケールの大きな作品を最近の日本の小説では見当たらないのが残念だ