小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

198 近所のボランティアたち 元気な定年世代

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 散歩のコースに一周700㍍ほどの調整池がある。実はその一角が私は好きだ。そこは小さな林である。好きな理由は四季折々に野鳥が鳴いているからだ。もともと原野を切り開いてつくった街であり、たまたま調整池とともに林も残したのだろう。

 しかし、予算がないのか、役所は「マムシ注意」の看板は立てたものの、林の手入れは全くしないままに放置していた。その林が最近きれいになってきたのである。 この林は、里山というには面積も小さすぎるが、春から夏にかけてのウグイスやホトトギスなどの野鳥の鳴き声、そして夏のセミ時雨が私たち住民の楽しみになっている。

 役所が手入れしないので篠竹などの下草が繁ってしまい、さらにゴミも捨てられ、散歩をしていても不快に思うことが多かった。 それがことしになって様子が変わってきた。下草が刈られ、林の中に遊歩道のような細い道ができつつある。

 最近定年退職したと思われる年格好の人たちが車でやってきて、林の手入れを始めたようだ。 もちろん、役所の許可も得ているのだろう。少しずつながら、林はきれいになってきた。倒木は処理され、いまは紅葉が美しい。

 11月に千葉大でアルフォンス・デーケン上智大名誉教授の講義を聴いた。彼は「人が病気になるのは生きがいを喪失した結果だ。だから生きがいを見つけることが大切だ」と強調していた。その通りだと思う。人は生きがい、生きる目標があってこそ、充実した日々を送ることができるのだ。 定年後、何を生きがいにするかと考えている人は多いだろう。

 この林を手入れしているグループは、長年放置された林を「里山」として甦らせることに生きがいを見い出したのかもしれないと思う。力仕事である。元気な人々の存在はうれしいものだ。 彼らだけでなく、散歩の途中にゴミ袋を持って遊歩道を回る男性にも頭が下がる。

 彼はスラリとしていて顔は真っ黒に日焼けしている。健康のために散歩を続け、ゴミを拾い続けることを日課にしているようなのだ。 彼と出会う遊歩道は1周6・4㌔ある。ゴミを拾う作業を続け、この距離を歩くには、元気でなくてはできない。彼もまた、デーケン先生の言う「生きがい」を散歩とゴミ拾いに見つけたのかもしれない。