小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1444 貶められた無限の可能性 この世で最も美しい言葉……

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「言葉はこの世の最も美しいものの一つである―言葉は、眼には見えないが、絶えずわれわれの側にただよってわれわれが弾くのを待っている、不可思議な楽器のようなものだ」 オーストリアの詩人、作家、劇作家のフーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874~1929)が言葉についてこんなふうに書いていることを、エッセイスト・高橋郁男さんが連載詩論『詩のオデュッセイア』(コールサック社)で紹介している。だが、言論の府の住人であるはずの政治家たちには、この言葉は当てはまらないようだ。相次ぐ昨今の日本(米大統領候補者のトランプ氏も同類)の選良たちの妄言(失言ではない)を聞いていると、言葉とは何だろうと考えこんでしまう。 女性作家をテーマにした短編で「人間の宝物は言葉だ」(『空中ブランコ』文春文庫)と書いたのは、直木賞作家の奥田英朗だ。このあと「一瞬にして人を立ち直らせてくれるのが、言葉だ。その言葉を扱う仕事に就いたことを、自分は誇りに思おう。神様に感謝しよう」という文章が続いており、奥田はこの作品で、ホーフマンスタールとともに言葉という存在の重要性に光を当てている。 一方、ドイツ生まれの詩人・作家ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)は「詩人が何よりもましてひどく苦しめられている欠陥物で、この世の屑ともいうべきものは、言葉である」(『ヘッセの読書術』草思社文庫)と記した。言葉がいかに難しいものであるかを「この世の屑」という比喩的表現で示したものだろう。 推理作家・笹沢左保の父親で詩人の笹沢美明(1898~1984)は「言葉」という詩を残した。長い詩なので冒頭の一部を紹介する。 「わたしは ときどき言葉をさがす、なくした 品物を さがすときのように、 わたしの頭の戸棚は混雑し 積まれた書物の山はくずされる。 それでも 言葉はみつからない。 すばらしい言葉、あの言葉。 人に聞かせたとき なるほどと思わせ、 自分も満足して にっこり笑えるような、 熟して落ちそうになる言葉、 秋の果実そのままの 味のよい のどを うるおして行くような あの言葉。 美しい日本の言葉の ひとつひとつ その美しい言葉をつかまえるために わたしはじっと 空(くう)を見つめる。 それなのに、その言葉は 遠くわたしから 遠く私から 去ってしまう。(以下略)」 この詩を読むと、詩人や作家たちが言葉と格闘しているかが理解できる。 高橋さんは詩論の中で文学者が言葉に関し、どのような考え方をしているかについても考察し、言葉について次のように書いている。 「世界に限らず、言葉を使う表出・表現には、ある不可能性が付きまとっている。それは『言葉は現象ではない』ということに関連しているように思う。(中略)説明の道具としての言葉・文章の限界を示している。しかし、見方を変えれば、映像にはならない姿形の無い世界を描いたり、読み手の想像力を喚起したりする道具としての無限の可能性があることを示している」 残念なことに、わが国の政治家たちの言葉からはそうした無限の可能性を感じることはない。この世で最も美しいものを汚し、この世の屑にし、宝物をガラクタ扱いまで貶(おとし)めているとさえ感じてしまうのである。