小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1410 優しい「月の山」 届いた出羽の風景

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(月山の降臨?現象) 森敦の『月山』(1974年に芥川賞を受賞)は、霊山である出羽三山(月山、湯殿山羽黒山)の一つ、月山(1984メートル)の麓の小さな寺にある夏に住み着いた男が長い冬を過ごした後、どこかに去っていくという話の名作で、森自身の体験を基にした私小説だ。この作品で森は前段で月山について細かく描写している。たまたま山形の知人から月山の珍しい写真が届いた。それは美しい風景であり、霊山を象徴するような写真だ。 『月山』は「ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした」から始まる。 そのあとで「月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと述べる山々を連亙させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落としている」と、月山について記している。 深田久弥は『日本百名山』の16番目で月山を描いている。書き出しに芭蕉の句「霧の峰いくつ崩れて月の山」を置き、さらに「みちのくの出羽のくにに三山はふるさとの山恋しくもあるか」という斉藤茂吉の歌を紹介し「出羽三山とは、羽黒山、月山、湯殿山のことだが、羽黒と湯殿は山としては論じるには足らない。ひとり月山だけが優しく立っている。優しく―それが月山である。北の鳥海の金字塔と対照するように、それは優しい」と書いている。 羽黒山は山とはいえ標高414メートルの丘陵であり、湯殿山も標高は1500メートルだから、深田は山というとらえ方はできないと思ったのだろう。それに比べると、月山は絵になるのだ。 森と深田の月山についての文章を読んで、その魅力を想像する。山形の知人も月山には年何度も登山し、その魅力に取りつかれているのだろう。山形には何度か足を踏み入れているが、登山とは無縁なゆえに、月山の魅力は知らないでいた。数年前の秋、車で山形から鶴岡に高速道路を利用して向かったことがある。途中、月山を臨むポイントがあったが、あいにく雲があって優しい山は見えなかった。 芭蕉奥の細道の旅で、出羽三山を巡礼した。羽黒山経由で月山に登って、山頂小屋で一泊し、翌日、湯殿山へと足を延ばし、湯殿神社に参拝している。深田によれば、昔の文人で2千メートルに近い山に登った紀行は珍しいという。それゆえに、前掲の月山の句が生まれたといっていいだろう。 福島県生まれの詩人、田中冬二は「山への思慕」という詩を書いている。 しづかな冬の日 私はひとり日向の縁側で 遠い山に向かつてゐる 山は父のようにきびしく正しく また母のようにやさしい 山をじつと見つめてゐると 何か泪ぐましいものが湧いて来る そして心はなごみ澄んで来る しづかな冬の日 私ひとり縁側で暖かい日を浴びて 遠い山に向かつてゐる                                                   (『晩春の日に』より) 月山は、そんな気持ちにさせる山の一つなのかもしれない。 冒頭の写真は、月山頂上から少し南側に降ったところにある神饌池の水がキラキラと光っていたので何気なく撮影したという。「肉眼ではこのようには見えなかったので、カメラの光学的偶然の賜物」と知人は伝えてきた。後方に見えるのは村山市寒河江市境の葉山(1、462m)である。以下、知人から届いた写真を掲載する。(冒頭の降臨?現象を含めていずれも板垣光昭氏撮影)
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(月山から見た朝の出羽の山々は神々しい)
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(月山の晩夏)
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(咲き誇るチングルマ
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(誰が名づけたのか姥ヶ岳)
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(稲刈りはじめ)
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(知人宅の裏山のなめこ
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(晩夏の味覚、天然鳶茸)
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(天然山伏茸)
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(ホウキ茸)
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(ジャンボ山伏茸) 以下、肘折の記事 305 肘折温泉にて コーヒーの思い出(1) 306 肘折温泉にて コーヒーの思い出(2) 307 肘折温泉にて コーヒーの思い出(3)