小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1392 高校野球の「魔力」 私的決勝戦の印象

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甲子園の夏の高校野球全国大会は、神奈川県代表の東海大相模が10-6で宮城県代表の仙台育英を倒して、45年ぶり2度目の優勝を飾った。仙台育英が一時6-6まで追い上げたが、9回表に東海大相模のエース、小笠原がホームランを打ち、さらにダメ押し点を上げて、追いすがる育英を突き放した。仙台に住んだことがある私には、この結果は残念でならない。 テレビで見ていて小笠原のホームランへの流れをつくったのは、育英の8回裏の3人目の打者谷津に対する審判の判断だったのではないかと考えた。審判の判断(打者にボールが当たったが、故意に当たったもので捕手が捕球したボールはストライクだったとして打者は三振)が、東海大相模を元気づけたのは間違いない。 仙台育英の8番打者谷津は、その前の打席ではセンター前に安打を打っている。その前にはファール何度も粘って小笠原投手の投球数を増やし、疲れさせている。8回の打席でもツーアウトとはいえ、彼が一塁に出ることができれば、投球数が100球をとうに超えた小笠原を脅かすことになる。2ボール2ストライクからの6球目、小笠原が投げた内角のストレートは谷津の体に当たり、谷津は一塁へ走り出した。だが、主審の判定は三振。がっくりする谷津に対し、小躍りする小笠原。その表情は対照的だった。 このあと、9回表に先頭打者の小笠原が一球目の甘い球を打つと右中間オーバーのホームラン、これが決勝点になった。死球と思ったはずが三振。この違いが疲れ切った小笠原に力をもたらしたといえる。 野球規則 6・08『バッターが安全に進塁できる場合』の(b)には、こんな条文がある。 《 打者が打とうとしなかった投球に触れた場合。ただし、(1)バウンドしない投球が、ストライクゾーンで打者に触れたとき、(2)打者が投球を避けないでこれに触れたときは除かれる。バウンドしない投球がストライクゾーンで打者に触れた場合には、打者がこれを避けようとしたかどうかを問わず、すべてストライクが宣告される。しかし、投球がストライクゾーンの外で打者に触れ、しかも打者がこれを避けようとしなかった場合には、ボールが宣告される》 今回のケースは、審判が「バウンドしない投球がストライクゾーンで打者に触れた場合には、打者がこれを避けようとしたかどうかを問わず、すべてストライクが宣告される」を適用したのだろう。だが、あとでテビデオを見たらボールであり、三振ではなくボール(前記の通り、投球がストライクゾーンの外で打者に触れ、しかも打者がこれを避けようとしなかった場合にはボールという規定)、あるいは避ける余裕がなかったので死球とすべきだった。 谷津は、この打席の1球目でワンバウンドしたボールが足に当たったとアピールしており、6球目も審判の判定が出る前に一塁方向へ歩き出した。こうした姿から審判は故意性があると判断したのだろうか。 夏の甲子園大会は注目度が高い。これまで幾度か誤審も問題になっている。猛暑に耐えながら的確な判断を求められるのだから、審判の苦労は相当なものだろう。大会が終わり、彼らにも遅い夏休みがやってくる。 高校野球の魅力は球児の全力プレー、筋書きがない意外性、地元チームに対する郷土意識、などが挙げられる。とはいえ、優勝した東海大相模の主力選手18人のうち地元神奈川県の中学出身者は8人で、残る10人は他県の中学出身者である。私立の強豪校は似たような状況にあり、選手自体は地元とは関係がない。そういうチームしかいまの甲子園大会では勝ち残れないのも現実だ。それでもテレビにくぎ付けになってしまうのだから、夏の甲子園は魅力というよりも人をひきつけて離さない「魔力」のようなものがあるのだろう。 社会学者の内田隆三は『ベースボールの夢 アメリカ人は何をはじめたのか』(岩波新書)で、「ベースボール(大リーグ)はホームチームのある都市のコミュニティのプライドや連帯感を高めるといわれる。だが、このコミュニティは決して自律的でも包括的でもなく、むしろ生活の利害から遊離したところで、ゲームの時間を通じて浮上するものでしかない。せり上がる熱狂がいかにも過剰に見えるのは、その熱狂の根底が抽象的なものだからである。それは生活の利害を欠いているためにかえって夢のような気晴らしになる」と書いている。この考察は日本の高校野球にも通じるのではないか。 写真はノルウェーの氷河 暑い夏には、こんな写真を見てくつろぎたい