小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1354 百周年のハナミズキ 耐え続け日本の春の花に

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ハナミズミがアメリカから日本に渡来してことしでちょうど100年になる。1912年(大正元年)、当時の東京市長だった尾崎行雄(のちの咢堂、憲政の神様、1858~1954)が日米友好のために約3000本のソメイヨシノを贈り、ワシントンのポトマック河畔に植えられた。そのお礼として3年後の1915年(大正4年)にハナミズキが日本に贈られたという。アメリカ山法師ともいい、いま私の住む周辺では白と紅の花が満開だ。 花水木咲き新しき街生まる 小宮和子 私が住む街は、住宅・都市整備公団(現在の独立行政法人UR都市機構)が開発した。同公団が開発した他の地域と同様、一部地区の街路樹としてハナミズキが植えられた。その街路樹(ほとんど白色)が咲く道の両側は、白く輝いているように見える。北限は東北地方と言われ、多くの地域でこの木が街路樹に採用されたようだ。小宮さんの句からは、そんな新しい街の姿を想像することができる。
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2004年2月、一青窈さんの代表曲になった「ハナミズキ」がリリースされた。 空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい つぼみをあげよう 庭のハナミズキ  薄紅色の可愛い君のね  果てない夢がちゃんと終わりますように  君と好きな人が百年続きますように(以下略) 一青窈さんはテレビ番組で、2001年9月11日のアメリ同時多発テロの犠牲になった知り合いへの思いを込めてこの曲の詞を書いたことを明かしている。平和への祈りを込めた歌なのだといえるが、この曲によってハナミズキ知名度も上がったことは間違いないだろう。 ハナミズキは日本の街に溶け込み、もう珍しい花ではなくなった。「耐久性」という花言葉の通り、100年の年月を風雪に耐え続け、日本の春の花として認知される存在になったのである。この100年の日米関係をみると、第二次大戦では敵国として激しく戦い、アメリカは人類に対し初めての原子爆弾を広島、長崎に投下した。日本は戦後、アメリカとともに歩んできた。そして、日本政府はいまもなお、アメリカの言いなりの政策をとり続け、沖縄に過大な負担を強い、耐えることを求め続けている。 ところで、この花の英名は「American dogwood」だそうだ。樹皮の煮汁が犬の皮膚病やノミの退治に効果があるというのが名前の由来らしい。 わが家のゴールデンレトリーバー「hana」が死んだのは、2013年7月30日のことだった。その遺骨は居間からよく見える金木犀の木のすぐ近くに埋めた。そのすぐ隣には白色のハナミズキがある。hanaは、「犬の木」に見守られて眠っているのである。 写真 1、近所の小学校校門近くの紅色のハナミズキ 2、近所の庭の白色のハナミズキ