小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1321 太平洋戦争開戦から73年 「恐ろしい冒険」と記したチャーチル

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風邪をひいて1週間、朝の散歩と公園でのラジオ体操をやめていた。今朝から再開したが、いつもの散歩の時間の6時過ぎでもまだ外は薄暗い。きょう12月8日は、73年前の1941年(昭和16)に日本軍がアメリカの真珠湾の攻撃を行い、太平洋戦争に突入した日である。

73年前、私と同じように早朝の散歩をした人たちは、帰宅直後の7時に臨時ニュースで大本営発表を聞き、日本が超大国相手に戦争を始めたことを知る。イギリスのチャーチルは、日本が戦争へと走ったことについて「伝統に富んだ長い歴史を持つ東洋の島国日本―それが、最も恐ろしい冒険へ飛び込む時が、ついに来たのだ」(チャーチル『第二次大戦回顧録』中公文庫)と記している。それが「無謀な冒険」だったことは歴史が証明している。

大本営の太平洋戦争に関する1回目の発表は、午前7時にNHKのラジオ放送で流された。「臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍ハ今八日未明、西太平洋ニ於ヒテ、アメリカ、イギリス軍ト戦闘状態ニ入レリ」という内容である。

当時、ドイツ、イタリアを相手に戦っていた連合国側のイギリスで、首相の座にあったチャーチルは、12月7日(現地)夜、2人のアメリカ人(駐イギリス大使のワイナイト、外交特使のハリマン)と夕食を共にしていた時に、日本軍による真珠湾攻撃のニュースを知り、アメリカのルーズベルトに電話をする。こんなやりとりである。

「大統領閣下、日本はどうしたというのですか?」

「事件はほんとうです。日本は、パールハーバーを攻撃しました。これでわれわれは手をたずさえて戦わねばなりません」

「これではっきりしました。ご健闘をいのります」

 

チャーチルは、この後、翌日の国会召集を事務当局に命じ、フランス大統領(注、ナチスドイツとの戦争に負けたフランスはドイツと休戦協定を結び、パリを含むフランス北部と東部はドイツの占領下に置かれていた。フランス政府はフランス南部のヴィシーに移り、ヴィシー政権と呼ばれ、その中心を担ったのが軍人出身の首相のフィリップ・ペタンだった)と中国の蒋介石総統に電報を打つ。

 

チャーチルは、この夜の心境を「名誉あるイギリスの歴史は、決して終わらぬであろう。ヒトラーの運命もムッソリニーの運命も、すでに定まった。日本も滅びなければならない」と記している。

一方、敵に大打撃を与えたという2回目の大本営発表を聞いて、日本国民は大勝利に酔った。知識人といわれる人たちもこの例外ではない。以下、半藤一利著「昭和史」(平凡社)から抜粋する。

評論家・中島健蔵 (これは)ヨーロッパ文化というものに対する一つの戦争だと思う。

  

評論家・本多顕彰 対米英宣戦が布告されて、からっとした気持ちです。聖戦という意味も、これではっきりしますし、戦争目的も簡単明瞭となり、新しい勇気も出て来たし、万事やりよくなりました。

  

評論家・小林秀雄 大戦争がちょうどいい時にはじまってくれたという気持ちなのだ。戦争は思想のいろいろ無駄なものを一挙になくしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口をきかねばならなかった。

  

作家・亀井勝一郎 勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。即ち嘗てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来たのである。

  

作家・横光利一 戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである。

ナショナリストのオンパレードともいうべき文化人たち。彼らは当然、チャーチルが日本の攻撃を「冒険」と揶揄していることは知らない。昨今、文化人と呼ばれる人たちの中に、この戦争を肯定的にとらえる人たちが増えているようだ。時計の針を逆戻りさせるようなおかしな時代になりつつある。

写真は神宮外苑の黄色くなった銀杏  1943年(昭和18年)10月21日、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれ、多くの学生が戦争へ駆り出され、命を失う。