小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1224 観桜のころ 花の冷えと花の重さの下で

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花の冷えと花の重たさの下をゆく―。中央公論の名編集長として知られた俳人篠原梵の句である。山本健吉はこの句について「らんまんと咲いた花の下を行く。その冷えと重さを感じながら―。言い方に近代風の機知が感じられる」(句歌歳時記・春、新潮社)と評している。桜の花と冷えは付き物のようで、わが家周辺の桜は満開だが、桜の下を歩くと、冷えとともに、花の重さも感じる気がした。 日本人は桜が好きである。昨日は友人とともに花見をやり、きょうは家族とともに桜並木の遊歩道を歩いた。桜の下では、老若男女とも屈託のない表情をしているのが何とも言えない。桜前線の北上とともに、全国で多くの人たちが花見という風物詩を楽しむ。花見=観桜はいつから始まったのだろう。 手元にある「桜信仰と日本人」(青春出版社・田中秀明監修)によると、奈良時代に貴族たちが梅の花を見ながら歌を詠んだことが花見の起源とみられ、最古の和歌集といわれる万葉集には、梅に関して100首以上あるが、桜にまつわるものは40首しかないという。その後、平安時代になって花といえば桜を指すほど日本人の桜への思いが強くなり、平安前期の古今和歌集には圧倒的に桜を詠んだ歌が多い。 貴族―武士という支配階級の人たちだけでなく、一般庶民にも花見の習慣は次第に浸透し、元禄時代には大衆化。江戸の街には上野、向島飛鳥山、御殿山という花見の名所が開発され、それが現代にも引き継がれている。 この本の中で特に興味を持ったのは「時代に翻弄された桜」の章で、3つの考察が書かれている。国学者本居宣長は有名な「敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花」という歌を残した。昭和初期から敗戦まで日本が掲げてきた軍国主義国粋主義を煽動するのに大きく貢献したとされた歌であり、当時、大和心は「日本人の心」ではなく、「大和魂」と解釈された。しかし同書は宣長の出生にまつわる事情や彼の残した桜観(玉勝間という随筆)などから、イデオロギーとは関係なく、古代日本人の自然観から「詠まれたとおりの意味」と解釈するのが宣長の本意―と記している。 2つ目は「ソメイヨシノの悲劇」である。全国の桜のうち8割がこの花だそうだ。江戸時代末期に新種として登場し、豊島郡染井(東京都豊島区駒込巣鴨の境界地で染井墓地がある)あたりの植木屋が「吉野桜」という名前で売り出したが、本場の吉野(奈良県)と混同されるので発祥の地である「染井」を頭に付け、「ソメイヨシノ」になったという。生育が早く、花付きもよく、華やかな桜は人気を集め、明治になると全国に広まった。城跡、公園、堤防、学校などあらゆる場所に植えられ、全国を席巻する。日本は日清、日露戦争に勝ち、国威発揚政策を進めた時期とソメイヨシノの普及の時期が重なり、それが桜(ソメイヨシノ)と戦争を結びつける1つの要因になったという。 この花は花期が短く、満開になったと思ったら1週間もしないうちに散ってしまう。花が多いだけに一斉に散る様子も見事で、この潔い散り様が戦争での士気高揚に利用された。明治政府はこの性質を利用し、ヤマザクラソメイヨシノに代えて植樹し、軍隊の駐屯地として使われた城跡には特にこの花を植えることを徹底した。同期の桜など軍歌に出てくる桜はソメイヨシノを連想させるから、戦後の一時期悪とされて伐採された樹もあったという。 この後の「現代人の桜観」の考察もなかなか面白い。「日本人の生活に密着した存在となったため、桜には不幸(軍国主義のイメージ)となる時期もあった」としたうえで、「そろそろ日本人は理屈や大義を抜きにして生まれながらの真心をもって桜に向かう時期が来ているかもしれない」と述べている。さらに国語学者山田孝雄氏が著書「櫻史」の中で「日本人が桜を愛するのは散る花に無常観を見ているからではないだろう。平安時代に催された花の宴も桜狩りも花の散るについて心を痛めた催しではなかった。花の散るのを惜しむのは人生をはかなんでのことではなかった」という説を紹介し、「世の無常観を詠んだ歌の数々も、その真偽は別として、押しなべて楽しい酒宴の席で詠まれたものに違いない。人よりも上手な歌を、心に沁みる歌を詠もうと意識的につくられたということなのだ」と、推測しているのである。 独学で植物学の大学者になった牧野富太郎は大の桜好きだったという。1902年(明治35)には、ソメイヨシノがなかった故郷の高知・佐川村(現在の高知県佐川町)と高知市五台山に苗木数十本を送っている。この2年後には日露戦争(1904-1905)が勃発、戦争の祝勝記念に各地でこの桜が植栽されたといわれる。 牧野は「植物知識」(講談社学術文庫)の中で「人間は生きている間が花である。その間に大いに勉強して善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。酔生夢死(ただぼんやりとして)するほど馬鹿なものはない。この世に生まれ来るのはただ一度きりであることを思えば、この生きている間をうかうかと無為に過ごしてはもったいない、実に神に対しても申し訳がないではないか」と書いている。この精神を貫いた一生(94歳で没)で、この24日が生誕152年である。 友集い花びら受けて昼餉する
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