小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1115 ハトが生け垣に巣作り  欧米の動物愛護の常識は

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わが家の庭の生け垣(ヒイラギモクセイ)にハトが巣をつくっているのを知ったのは、10日前のことだ。朝、犬の散歩から帰ってくると、どこかでハトが鳴いている。その声はいやに近い。よく見てみるとハナミズキの木の後ろにある生け垣の間から、ハトの姿がちらちらしている。迷惑にもならないので、毎日巣づくりを観察しているこのごろだ。 羽の模様からキジバトとみられ、つがいで巣をつくっている。オスが時々飛んで行き、嘴に小枝をくわえて戻ってくる。それを待っていたメスの巣に入れるのだ。巣の中に卵があるかどうかは見えないが、メスが巣を守るようにしているので、雛をかえそうとしているのかもしれない。オスバトは小枝を置くと、巣の近くのハナミズキの枝に飛び移り、周囲を警戒するようにきょろきょろと目を動かし、危険が迫っていないことを確認すると、飛び立って行く。そんな繰り返しが続いている。餌も運んでくるのだろうか。最近、注意してみていると、昼間はオス、メスともいないので、どこかへ行っているのかもしれない。 ハトはオリーブとともに、昔から平和の象徴といわれている。かつて近代五輪の開会式にもハトが飛ばされ、東京五輪の記録映画でもその場面(カワラハトの放鳥)があったと記憶している。しかし、最近読んだイギリスの作家、グレアム・グリーンの短編集(見えない日本の紳士たち)の中で、ハトをめぐるエピソードが記されていて、日本人との感覚の違いにややショックを受けた。 それは「慎み深いふたり」という短編で、舞台はパリの公園。初夏のある日、中年の男女がひとつのベンチに座って孤独な時間を楽しんでいるところへ、2人の悪ガキがやってきて、1人の少年がエサをつついでいるハトを足で蹴散らす。2人がいなくなったあと、1匹のハトが脚を折ったらしく、バタバタ羽を打って苦しんでいる。それを見た男がハトを拾い上げ、慣れた手つきでその首をひねり、ゴミ箱に亡骸を捨てる。男が「他にどうしようもありませんからね」と言ったのをきっかけに男女は言葉を交わし、レストランで夕食をともにするという話だ。 グレアム・グリーンは「それなりの育ちをしてきた人間であれば、だれしも身につけているべき技である」と書いているから、ヨーロッパでは瀕死の状況の動物がいた場合、苦しみを早くなくしてやろうと割り切り、公園の男のように対応するのが「常識」なのだろうか。日本なら、こうした行為は動物愛護団体から非難されることを思って見て見ぬふりをするか、公園管理事務所に連絡するかで、首をひねるという行為を思いつく人はいないのではないかと思う。 いまのところ生け垣のハトにはパリの公園のような悪ガキという敵もいない。というより、生け垣の外を通る子どもたちが気がつかないほど、目立たない空間を探して巣をつくった。ただ、時々野良猫が近くを徘徊しているので、要注意だろう。子どものころ、実家の庭にあった五葉松の幹の空洞にフクロウが卵を産んだことがある。その 卵 をはしごを使って取って食べたことを思い出した。私もパリの子どもと同様、悪ガキだったのだ。 写真 1、小枝をくわえたハト 2、生け垣と満開のツルバラ 3、ピンク色の小さな夏ツバキ(ヒメシャラ)の花
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