小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

902 日本人の名誉を守った会津 梅原猛著「日本の深層」

画像哲学者の梅原猛は仙台で生まれ、愛知県の知多半島で育ち、長じて京都で生活している。哲学者であると同時に日本ペンクラブの会長(13代)も務めた文人でもある。「日本の深層」は、そんな梅原の両面を見ることができる作品だ。 副題に「縄文・蝦夷文化を探る」とあるように、東北地方の古代史を中心にした歴史を振り返り、紀行文を交えながら分かりやすい表現で書いている。中でも面白いのは日本の民俗学の開拓者といわれる柳田国男に対する批判、松尾芭蕉の俳句の読み方、会津の反骨の由来など独特で説得力のある論考だ。 柳田批判について、ここでは詳しく触れないが、解説を書いた赤坂憲雄は「日本の深層によって、柳田の『雪国の春』(の叙述)は、根拠の大半を失ったといっていい」という趣旨のことを書いている。「雪国の春」はかつての私の愛読書でもあった。折を見て読み返し、梅原の批判が当たっているのかどうか、私なりに考えてみたいと思う。 山形を訪ねた梅原は、芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」で知られる山寺にも足を伸ばす。梅原によると、巨大な岩がある山寺は、死の山であり、死の入り口とみる。そして、梅原は従来の芭蕉の句の解釈も考え直す必要があると思う。蝉が油蝉かミンミン蝉かという議論は枝葉末節であり、近代人の考える山寺の風景(そこに死霊のいない正者だけの風景を詠んだ)とは違うというのだ。 原発事故の風評被害で観光客が激減した会津。梅原は「会津魂の真相」という章で、最も個性的な福島県会津について「そこはやはり不思議な国なのである」と書いている。さらに「あまりに日本的な土地で、日本よりもっと日本的な土地、それが会津であり、そこに会津の悲劇があったといえるかもしれない」と、会津について分析を試みた。 会津には平安時代のはじめ徳一という僧がいた。最澄空海と論争した教養と知性を持った僧だが、日本史の中では悪役として記された。だが、会津地方を含め東国では慕われる存在だったという。さらに梅原は、幕末期に徳川幕府を守ろうと懸命に働きながら将軍慶喜勝海舟に梯子を外された会津藩主・松平容保(かたもり)と会津の悲劇にも触れている。 梅原はこうした会津の歴史を踏まえて「日本人は、特に弥生人はまことに変わり身のよい人間であった。しかし日本人の中には変わり身の悪い人間がある。縄文の風習を後々までもち続け、正直をもっとも重要な道徳と考える人間がある。少数でもそういう人間がいたことは日本人にとって名誉なことなのである。会津はその悲劇において、日本人の名誉を守ったといえる」と、記した。 徳川体制に尽くしながら裏切られ、苦汁をなめた会津の歴史は、原発事故の福島県を想起してしまう。それでも多くの福島の人たちは正直に、誠実に「変わり身」の悪い生活を送っている。震災を通じ東北の人々は忍耐と冷静さを忘れず、変わり身の悪い生活を通じて、日本人の誇りと名誉を守ったのだと思う。