小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

787 光の春、ウグイスの初音と花粉症と 心弾む散歩の季節

画像毎朝6時ちょっと過ぎたころ、犬とともに散歩に出る。散歩コースの調整池周辺の小さな森から、ウグイスの鳴き声が聞こえるようになったのはつい先日のことだった。 「ウグイスが初めて鳴くのをどう表現するんだっけ」「ああそうだ。初音だった」なんてことを犬に話しかけながら歩いたのだった。 太陽の輝きが日々増して行き、花々が咲き誇る嬉しい季節がやってくる。だが、この時期は花粉症という現代病と闘う多くの日本人にとって憂鬱な季節なのである。 詩人で児童文学者だった百田宗治(1893-1955)に「光」という詩がある。 自分はのぼってゆく。どこまでもつゞく階段、黄金の階段。 自分はのぼってゆく。光は遠い。真実の太陽の光。 自分はのぼってゆく。どこまでもつゞく階段、黄金の階段。 ―光は遠い。 しかし光は溢れてゐる、光はそこにあふれてゐる。 季節は不明だが、光の春にこの詩を書いてもおかしくはないと思った。百田が生きた明治から大正、昭和という時代、日本は幾多の困難に直面した。しかし当時の日本の春には「花粉症」という忌まわしい病はなかったはずだ。 それがいつしか、春になると私の家族を含めた多くの日本人が約3カ月、苦しい日々を送ることを強いられるようになってしまった。 花粉症に対する研究、対症療法は年々進んでいる。だが、個人差があって容易に苦痛を取り除く対策はない。電車の中でマスクをした人が急に増えた。 そうしたマスクの人たちが携帯電話の画面に見入る不気味とも思える光景はもう珍しくはない。それは日本の「現代の風景」そのものなのだ。 育児で帰宅中の1人を含めて、私を除く家族3人が花粉症に悩まされている。私だけが不愉快な病となぜ縁がないのか、その原因は分からない。 生まれ、育った実家の周辺は緑に包まれ、当然のように花粉症の原因といわれる杉の木も多かった。春には杉花粉が飛ぶ中を遊んでいた。それなのにわが身は全く花粉に反応しない。 だからこのごろ、寒さが残っていても、まぶしい太陽光線の下で朝の散歩をするのは苦痛ではない。「心弾む」などという表現をしたら、花粉症に苦しむ家族や多くの人に申し訳ないが、それに近い心境だ。 画像(いつも一緒の犬たち。ちびの方は最近預かっている)