小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

762 一本の赤い山茶花 冬の庭の孤独な花

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フランス文学者で文芸評論家の杉本秀太郎は、花ごよみという本の中で、「山茶花」(サザンカ)について「山茶花は、白い花でなくては冬の身が締まらない」と書いている。 杉本はこの花は白であるべきだと言いたいのだろう。私は赤い花でも杉本ほどの違和感はない。人の好みはなかなか面白い。 わが家には鉢植えから庭に植え直した赤い花の山茶花が一本だけある。成長は鈍くてこの冬になって、ようや本格的に花が咲いた。種類は知らないが、生垣(植込み)や公園、遊歩道にある花(赤色で花弁の中心部のおしべの黄色が目立つ)とは違って、赤色で中心の黄色は目立たない。 寂しくなった庭の外れで、凍てつく朝でもささやかに咲くこの花は、私の目を楽しませてくれる。 杉本は山茶花に関してこう書いている。 <赤い山茶花を植込みに用いた長い道がある。コートも不要なほどの暖冬の年には、この道の赤い山茶花が、はやばやと10月の末には咲きはじめ、年が明けて1月、2月と咲き継いでいる。晴れあがった、風もない冬の日に、喫茶店、軽食堂、ブチックが軒をつらねる坂道をのぼったすえに、赤山茶花の植込みにさしかかると、腹が立ってくる。おれは牛でないぞ。暑苦しいおまえたちの挑発などに乗るものか。私はいつも腹のなかでこんな声を挙げながら、いやな一郭を足早に通りすぎる。山茶花は、白い花でなくては冬の身が引き締まらない。白い山茶花が散りかかる門の下なら、いつでもよろこんで通り抜ける用意がある> 杉本は京都人だ「赤い山茶花の植込み」は、京都にあるのだろう。にぎやかな通りを過ぎて、ほっとした時に目に入ったのが赤の集合体だった。それにしても嫌われたものだと思う。 正岡子規は2つの山茶花の句を詠んでいる。それはどんな色の花だったのかと思う。子規も赤い花は嫌いだったのだろうか。 <山茶花の  ここを書斎と  定めたり> <山茶花を  雀のこぼす  日和かな>