小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

728 背景は「水戸っぽ」気質か 映画「桜田門外ノ変」

かつてこんな言葉が警視庁内でささやかれたそうだ。「鹿児島署長(警視)に茨城巡査」である。鹿児島県出身者は出世し、茨城県出身者はその逆で巡査のままで終わるという出身県による差別が最近まで伝統としてあったというのだ。映画「桜田門外ノ変」を見て、なぜか、この言葉を思い出した。

この映画は吉村昭の同名の小説をモデルにしたものだが、吉村昭は小説作法として現実の事件の資料を徹底して当たっているので、事実ともいえる内容が作品に反映されている。映画自体もその意味では史実に近い作り方といえるだろう。

冒頭の言葉が浮かんだのは、安政の大獄の立役者である大老井伊直弼(彦根藩主)暗殺後、孤立し、追い詰められていく水戸の浪士たちの姿からだ。この事件(史実は桜田門外の変=1860年3月24日)に絡んで、薩摩藩は幕府政治を正すために京都で水戸の浪士たちと一緒に義挙するはずだった。しかし、それを約束した島津斉彬の急死により、それは反故となり、浪士たちは孤立無援となる。

薩摩や長州によって江戸幕府が倒され、日本が近代化の第一歩を記す「明治維新」はそれから8年後(1868年)にやってくる。徳川の御三家として別格の待遇を受けていた水戸藩は、9代藩主斉昭の死後、幕末には保守派と改革派に分かれて統制がとれずに力を失う。そして明治以降、警視庁内でこんな言葉が流布したのだ。

桜田門外の変の事後処理で驚くのは、加害者である水戸浪士に対する厳しい処分(ほぼ自刃、あるいは斬首)だけでなく、襲撃された彦根藩の関係者に対しても浪士に劣らない苛烈な処分が下されたことだ。負傷者は遠方の地で幽閉、軽傷者は切腹、無傷だった武士は斬首のうえ家名断絶というから、双方とも甚大な影響があったのだ。水戸と彦根が和解するまで長い時間を要したという。それは長州(山口)と会津の関係ともよく似ている。

幕末に講談師によって創作されたという「水戸黄門漫遊記」は現在もテレビで放映され、水戸光圀は江戸時代のヒーローとして扱われている。史実とは違ってフィクションだが、実在の光圀自身も名君だったという。水戸藩の武士たちは光圀の藩主時代から時を経て桜田門外の変をはじめとする過激な事件を起こしていく。

背景には「水戸っぽ」(怒りっぽい・理屈っぽい・骨っぽい)といわれる水戸人の気質があるといわれる。それを承知で映画を見ると、彼らの行動が理解できるかもしれない。