小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

704 「シッ ダールタ」の悟り ヘルマン・ヘッセの伝言

画像孔子論語「為政編」に有名な言葉がある。「吾、15にして学に志し(志学)、30にして立ち(而立)、40にして惑わず(不惑)、50にして天命を知る(知命)、 60にして耳にしたがう(耳順)、70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず(従心)」だ。 平均寿命が短かった昔は、40歳にして自分の生き方にもう惑うことなくなったのだろうか。しかし振り返って、40歳にしてこの心境に達することはできなかった。もちろん、50歳で天命を知ることはなく、いまもあくせくしながら日々を送っている。そんな日常を送る身としては、78年前のヘッセのこの作品は酷暑の終わりを告げたきょうの天気のように、清涼感を与えてくれるのだ。 ヘッセがなぜ、釈迦と同名(別人)のシッ ダールタという主人公を設定したのかは知りようがないが、主人公の仏門に入りながら人生の真理を求めて世俗の垢にまみれて、それでも何かを求める姿には共感を覚える。 私を含めてほとんどの人は「人生とは何か」という答えを得ることはできない。この作品を書いたヘッセも同じように、悩み、苦しんだのだろう。それがこの作品に投影されたと思う。 主人公は、仏門の途中で仏陀と出会い悟りに達していることを認めつつ、弟子にはならずに一般社会に戻り、遊女を知り、事業にも成功する。しかし、心は虚しく、すべてをすて旅に出、川の渡し守に弟子入りする。 年老いて、彼は悟りの境地に達する。幼馴染に再会してこう言う。「私のひたすら念じるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬をもってながめうることである」 ヘッセはキリスト教の信者である。しかし、このような仏教をテーマにした本を書いた。キリスト教でも仏教でも悟りを求める求道の厳しさ、苦行は変わらないことを自身の体験を通じて言いたかったのかもしれない。 現代は「混沌」とした時代だ。それは政治、経済、社会全般を通じていえる。特に政治家たちは最悪、醜悪だ。そんな時代でももがき苦しみながら、いつかはシッ ダールタのような生き方をしたいと思う。それはヘッセからできの悪い私たちへの伝言なのかもしれない。