695 晩夏そして挽歌 コオロギの鳴き始めの季節
9月に入っても涼しくはならない。だが、自然界に住む生物は秋の季節を感じているらしい。
夜の帳が下り始めた帰り道。草むらからコオロギたちのすだく音が耳に入る。中国大陸からやってきた繁殖力の強い種類らしい。それは風情を通り越して、うるさいくらいの合唱なのだ。
本来なら晩夏のはずだが、酷暑が続き夏の終わりが見えない。昨年10月に亡くなった作家の原田康子の代表作に「挽歌」という作品がある。中国ではかつて葬式のときに棺を乗せた車をひく人たちが死者を悼んで歌を歌った。それを挽歌(英語のエレジーに当たる)といったのだそうだ。晩夏はもちろん、夏の終わりを言うから、挽歌とは意味が違う。
しかし、そのイメージは共通するものがある。「終わり」「旅立ち・別れ」「寂しさ・物悲しさ」「区切り」などである。長く人生を送っていると、こうした思いに駆られることがしばしばある。
それは例えばこんなことだ。知人の一人が、近く海外駐在として日本を離れることになるという。人生は別れと出会いの繰り返しだ。それは別の言葉でいえば「邂逅」(めぐり会い)なのである。
人間は不思議なもので、初対面で相手の好悪が分かることが多い。その感覚はまだ鈍っていないと自負している。知人はそんな私なりの物差しで計っても、一定の位置を占めていた。そんな知人が旅立つことを聞いて「晩夏」あるいは「挽歌」という言葉を意識したのだった。
原田康子については、高校時代まで札幌の隣の家に住んでいたという作家の大崎善生が「子ども心に作家というのは大変な仕事だなと思った」と語っている。なぜか。原田の家の書斎は、いつも夜通し電気がついていたので、そう思ったのだという。
大崎は「傘の自由化は可能か」というエッセイー集で原田とのかかわりを記し「一人きりで机に向かう原田さんの姿は平原に立つ一本のポプラの木を思わせる。気高く、誇らしく、そして孤高にそびえ立つ一本の大木。いつの日かそうなれるよう私も頑張りたいと思う」と先輩作家への思いを書いている。
気高く、孤高にそびえたつ原田という大木の存在は少なからず大崎を奮い立たせた。そんな存在こそ、多くの日本人が求めているものなのだと思う。