小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

653 W杯PK失敗を乗り越えて 駒野選手の今後

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スポーツのチームプレーは、すべてがうまくいくとは限らない。W杯で決勝トーナメントに進んだ日本はパラグアイとPKまでもつれ込んだ末、惜しくも敗退しベスト8には進めなかった。PKを失敗した駒野友一(28)に対しては「PKは運の勝負。落ち込む必要はない」という同情が集まっている。

これが「半官びいき」(弱者に対する同情やひいきをすること)の日本の風土だと思う。しかし駒野は今後の人生でこの失敗を負って生きなければならないのだ。強い精神力で、サッカーに立ち向かってほしいと願わずにはいられない。

プロ野球でこんな話がある。阪神ファンなら覚えている人が多いかもしれない。

1973年8月5日の阪神―巨人戦.。9回表巨人の攻撃だ。阪神が2―1でリードの場面で投手は江夏豊。2死1塁3塁で巨人の黒江透修の打球はセンターへ上がり、阪神の外野手池田純一の守備範囲に飛んでいく。

これで阪神の勝ちだと甲子園球場の観衆だけでなく、両軍の選手、監督、コーチも思った。だが―。そうはいかなかった。池田はクラブを差し出しながら仰向けに倒れたのだ。それでも一生懸命にグラブを出すが、届かない。

黒江の打球はそのままセンターフェンス際まで転がり、巨人の2人の走者はホームベースを踏む。その裏、阪神は0点に終わって、逆転負け。この後、阪神は優勝まであと1勝まで迫ったものの、金縛りにあったように、勝つことができず優勝はできなかった。池田のプレーは、甲子園の外野の芝がはげていて、その窪みに足を取られたのが原因だったが、「世紀の落球」(記録はエラーではなく三塁打)とメディアが名付け、語り草になってしまった。

30年後、池田はスポーツライターの後藤正治のインタビューに対し「だれにも消せることなら消したい過去がある。消しゴムで消せるものならそれを消し去りたい。でもそれは消すべきものではなく、そこに大切なものがあるんだよということでしょうか。そこにこだわりつつ、試練を受け止めて新たな出発をする中 にあなた自身があるんですよということでしょうか」と答えている。

32歳で引退した池田は、2005年5月、還暦を迎えた翌々日、くも膜下出血で亡くなった。引退から28年、池田は「世紀の落球」というらく印を背負って生き、平均寿命よりもかなり早く、この世から姿を消した。

駒野は、今回のW杯で不動の右サイドバックとして全4試合にフル出場した。報道によると「豊富な運動量と安定した守備、機をみた攻め上がりで日本の快進撃に貢献した」という。駒野についてはどの新聞を見ても同じように書いてあった。

そんな駒野に対し、チームメートは「胸を張って帰ろう」と励まし、出身県の和歌山県海南市出身)が特別賞を創設して表彰する方針を固めたというニュースも流れた。本人にとってはつらい一瞬だったに違いないし、忘れたくとも忘れることができないプレーになるだろう。しかし、実はこれからの駒野の人生で、W杯南アフリカ大会出場は「勲章」といっていい。

日本チームが帰国した際の記者会見では発言の機会はなかったが、(あるいは彼の気持ちを考えて質問をしなかったのだろう)そのあと、帰り際に歩きながらで記者団に「失敗は失敗だったが、またPKの場面があれば迷わずけりに行きたい」と語ったそうだ。

その意気やよしである。挫折を乗り越えてこそ、人は大きく成長するのだと思う。失意のまま、球界を去った池田が生きていたら、駒野の失敗にどんな声をかけただろうかと思う。