小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

467 熱の中で読む「1Q84」 村上春樹のメッセージ

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体調を崩した。セキや鼻水は出ないが、熱があり、体がだるい。風邪薬を飲んで、数日、ゴロゴロと横になっていた。そばには気になる本があった。村上春樹の「1Q84」だ。

基本的にベストセラーは読まない。だが、ふらりと寄った本屋でうず高くこの本が上下とも積まれてあり、この地域ではまだ売れていない、なら買ってやろうというへそ曲がりみたいな気持ちが働いてしまい、つい手を出した。

それからしばらく、目を通すことはしなかった。「村上ワールド」という、やや難解であり、一種の幻想の世界に、好きなことをして時間を送ることが多い、いまの私が入り込む余地はないと思ったからだ。

以前は違った。長い間、現実を直視して生きてきた。だから時には、現実を超越した世界に憧れた。村上春樹の文学は、それをかなえてくれた。これは私だけではなく、多くの人の共通の思いなのかもしれない。

ベストセラーと報じられても、すぐには買おうとは思わなかった。衝動的に買ってしまったものの、頁を開くまで一定の時間を要した。が、熱が出て、何もすることがない時間ができた。ぱらぱらと頁をめくった。分かりやすい文体だ。体調不良を忘れて読みふけった。夢の世界に入り込んだようだ。

以前のブログにも書いたが、同時進行形で2つの物語を村上春樹は紡いでいく。予備校の数学講師で小説を書いている天吾と、スポーツジムのインストラクターの青豆が遭遇する1984年とは別の1Q84年。クロスした糸はいつしか1本の物語として進行していく。

この作品で村上春樹は何を私たちに呼び掛けているのか。村上は、昨年あるメディアのインタビューに応じた際「いま長い本を書いている。ポイントは恐怖です」と語っていたという。この世には生と死しかない。しかし生も死も恐怖との闘いであることを言いたかったのだろうか。

いま、世界は平穏ではない。深くて濃い霧に覆われているといっていいい。そうした時代に、私たちがどう生きていけばいいのかを村上春樹はこの作品で示唆しているのかもしれない。

「これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。・・・・・・・・・・・・・」

天吾の思いに託して村上春樹は、これからの私たちの生きる指針を示した。それは、何があろうとも、信念を持って誠実に、真摯に生きるということだろう。

この作品に対する受け止め方は千差万別だと思う。暴力と性が過剰と思えるほど登場することに違和感を持つ読者もいるだろう。これに対し量感、質感とも圧倒的であり、成熟した作品だという受け止め方の方が多いかもしれない。

かつて読んだ高橋和巳の「邪宗門」を思い出した。邪教として扱われ、滅んでいった新興宗教の開祖と同様に、不可思議な人物が1Q84にも登場する。体型こそはオウムのあの人を連想させるが、この人物の話は理知的だ。

売れる本がいい本とは限らない。荒唐無稽という言葉がある。この作品は実は荒唐無稽(一般的には駄作という)的な要素をはらんでいる。それはこの本を読んだ人は気がつくはずだ。(村上に遠慮したのか、メディアの多くはそれに触れない)。途中で重要人物が消えてしまうが、その説明はない。想像してほしいということなのだろうか。私は未完成だという印象を持った。

いずれにしても、この小説は後世に残る文学的な作品なのか、あるいは娯楽作品の大ベストセラーとしてその内容よりも社会現象が記憶されるのか。私にはにわかには判断できない。いつかあらためて読み返し、それを考えてみたい。