小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

468 お母さんただいま奮闘中 飛行機で再会した先輩の本

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 以前、奈良と京都を旅していて偶然、京都のデパートで東京の知人と出くわしたことがあった。ことしになって、今度は沖縄に向かう飛行機の中で同じ職場で働いたことがある先輩と乗り合わせ、空港到着までの時間を昔話に花を咲かせた。人生にはこんな偶然は何度かあるらしい。その飛行機で再会した先輩から、最近「お母さんただいま奮闘中」という長い題名の本が届いた。

  この先輩は、新聞記者を経て財団法人交通遺児育英会の機関紙編集長を長く務めた坪川光雄さんだ。昔と変わらず饒舌な(失礼)先輩は、沖縄に向かう理由を詳細に話してくれた。それを聞きながら私は、穏やかながら丁寧で粘り強い仕事をした坪川さんのかつての姿を思い出していた。

  交通遺児育英会は、交通事故で一家の中心である父親などを亡くした子どもたちのために奨学金を支給し、修学の支援をしている団体だ。この団体の活動によって悲嘆にくれた多くの家族が立ち直った。

  坪川さんはその機関紙「君とつばさ」の編集長として、夫を交通事故で失いながら、懸命に生きているお母さんを取材して今度の本と同名の連載を続けた。さらに交通遺児の高校でのクラブ活動の様子を「部活動拝見」として取り上げた。

 「奮闘中」の連載は平成8年12月からスタートした。この本で取り上げたお母さんは42人で、うち15人については再取材し、最近の暮らしぶりを報告している。部活動拝見も「燃えろ青春」として、本の中に盛り込んでいる。沖縄に行く機中で坪川さんは、奮闘するお母さんの一人を訪ねるのが目的だと語っていた。そのお母さんが42人目に登場する徳里江美子さんだ。

  現在、交通事故は「交通戦争」といわれた時代に比べれば死者数は減っている。90年の1万1227人をピークに、08年はほぼ半減の5155人だった。とはいえ、大事な大黒柱を失った家族の悲しみ、苦しみに変わりはない。

  坪川さんが取材した42人のお母さんからは、夫の死を乗り越え奮闘する姿とともにその悲しみも伝わってくる。日本には、こんなに多くの悲しみを背負った人たちが、涙をこらえて生きているのだとあらためて思い知らされた。

  頁をめくると、坪川さんのあたたかい心が伝わる記事が続いている。その中で平成13年5月に取材した青森県弘前市で便利屋を営む白取ルエ子さんの話が目に付いた。

  弘前市消費者金融武富士)に強盗が入り、金を奪った上でガソリンをまいて火をつけ5人が焼死するという衝撃的な事件があった。新聞、テレビで大々的に報じられた事件であり、私もその悲惨さゆえに忘れることができなかった。

  逮捕された男には死刑判決が下り、確定した。この本によると、5月8日の事件直後、母親から白取さんの携帯へ連絡が入り、犠牲者の中に長女の親友のお母さんが含まれていたことを彼女は知った。

  この時、ちょうど彼女に取材中だった坪川さんは書いている。『「命の重さって何だろう」、一言つぶやいてお母さんは押し黙った』と。このとき、坪川さんは白取さんにどんな言葉をかけたのだろうか。

  奮闘するお母さんの続編として、坪川さんは15人の「その後」を取り上げた。沖縄の徳里江美子さんは、水道工事業を営んでいた夫を交通事故で亡くした。46歳でパソコンを習得し、NTTの関連会社に勤務していたが、さらにNTTの子会社に転職した。

  5人の子ども(全員が女)は成長し、それぞれの夢に向かって進んでいるという。徳里さん一家の最近の写真(結婚した長女を除く5人)が掲載されている。それは、悲しみを乗り越え、幸せをつかんだ家族の姿そのものだった。

  42人のそれぞれの人生を記したこの本は、どんな境遇にあっても「生きることには意味がある」と教え、生きる勇気を与えてくれる。坪川さんは、つらい立場にいるお母さんたちを励ましながら取材し、時には涙を流しながら記事を書いたに違いない。そんな思いが、どの頁からも伝わってくる。

 (「お母さんただいま奮闘中」は、交通遺児育英会の創立40周年を記念して出版された)