小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

462 「少年」をめぐる2つの作品 「少年の輝く海」「少年時代」

画像
自分の少年時代を思い出して、輝いていたなと語ることができる人はどれほどいるだろう。 比較的豊かな自然の中で少年時代を送った。いま考えると、まばゆいばかりに輝きのある時期を経験したはずだ。しかし、それはいつしか忘却のかなたへと追いやられ、霞がかかった状態でしか思い出すことができない。たまたま堂場瞬一の「少年の輝く海」と池永陽の「少年時代」を読む機会があり、かつて私が味わったと同様の郷愁の世界へと足を踏み入れた。 瀬戸内海の島(堂場)と岐阜県郡上八幡(池永)という、小説にするには格好の地方を舞台にしている。堂場は東京から山村留学にきたという中学2年生が友達と一緒に沈没船探しをするというストーリーの中で、感受性の豊かな少年の夏を描き出した。 一方、池永は4人の仲のいい中学1年の少年たちが別離の時を迎える哀しみを郡上八幡の色彩の濃い自然や催し(夏の郡上おどり)を巧みに配置して綴っている。中心に据えた少年の姉は、少年の美術教師とともに心中するという悲劇で終わるのだが、少年たちをめぐる大人たちも、担任の女性教師をはじめとしてそれぞれに輝きを放っていて、郷愁の世界を彩っている。 堂場は警察小説とスポーツ青春小説という2つの分野の作品を得意にしている。異なる分野のはずだが、両方とも成功しているようだ。 池永も温かい目で人間を描いている。小説では郡上八幡には、町を流れる川にかかる橋から飛び降りることができれば一人前の男になるという伝統があるという設定だ。中学1年の春、少年は夏になったら飛び込もうと決心するが、現実には実行できない。そして秋が過ぎ、冬になる。少年の周囲にも大きな変化が起きていく。優しい姉を失った少年は、冬の川に飛びこむ。このラストシーンが美しい。こんな小説を読むと、もう一度少年時代に戻りたいと思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ふいに体が軽くなって灯りが見えた。あれは星だ。無数の星が良平を見ていた。飲みこんだ水を吐き出し、良平は凍えた体をさらに縮めながら、ゆっくりと岸に向かって泳いだ。「姉ちゃん」心の奥で小さく叫んだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 周囲に高校1年生になった息子が音楽(エレキギター)に夢中になって心配だという友人がいる。勉強も手に付かず、音楽にのめり込んでいるのだそうだ。親とすれば、当然の悩みだろう。 しかし、別の考え方もできると思う。音楽を野球やサッカーというスポーツに置き換えてみるのだ。全国では多くの少年たちが勉強そっちのけで野球やサッカーに取り組んでいる。この少年たちがすべてスポーツで大成するわけではない。人生のある時期、集中してやることができるものがあるのはある意味でうらやましいではないか。 少年時代、多くのことを中途半端にしかやらなかった私はそう思う。友人の息子さんは、いま輝きの時代を送っているのかもしれない。これはあくまで外野の声であり、当事者の友人の葛藤を思い、子育ての大変さを痛感するのだ。
画像