小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

352 人はなぜ山へ登るのか 沢木耕太郎「凍」を読む

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私は登山とは縁がない。山への気持ちは、田中冬二の「山への思慕」という詩程度のものだ。

しずかな冬の日 私はひとり日向の縁側で 

遠い山に向かってゐる

山は父のやうにきびしく正しく また母のやうにやさしい

山をじっと見つめてゐると 何か泪ぐましいものが湧いて来る

そして心はなごみ澄んで来る

しずかな冬の日 私ひとり縁側で暖かい日を浴びて 遠い山に向かってゐる

                           

以前、近所に住む学生が山岳部の冬山登山で遭難し、亡くなった。両親の悲しみは深く、言葉をかけることも憚れるほどだった。山の魅力はすごいのだろうなと思った。危険と知りつつ、人は山頂を目指すからだ。しかし私にとっての山は、田中の詩のように遠くから眺めていればいい存在だ。

最近、文庫本になった沢木耕太郎のノンフィクション「凍」を読んだ。若い友人も偶然、同じ時期に読んでいて「沢木はいい」という連絡があった。(この友人は、下山途中雪の世界との格闘で目が見えなくなりながら、生きる希望を捨てない2人の姿を記した148頁から150頁が特にすごいという)

この本は、世界的なクライマーといわれる山野井泰史と妙子夫人が2002年にヒマラヤのギャチュンカン(標高7952メートル)へ挑戦、登頂から雪崩に巻き込まれながら生還するまでの動きを追ったものだ。単行本も読んでいるので再読だったが、2人のすさまじい山との闘いの記録に引き込まれた。

山野井のヒマラヤでの登はんは基本的にアルパインといわれる単独登はんのスタイルだ。このギャチュンカンでは妙子さんとペアーで、切り立った壁をつたうように山頂を目指すが、妙子さんは体調不良のため山頂近くで登頂は断念、山野井だけが頂上を極める。その後2人は下山途中に何回も雪崩に巻き込まれ、死と隣り合わせの極限状況を経験し、凍傷になりながら生還する。

その代償は大きく、山野井は右足の指5本全部と左右の手の薬指と小指を失った。妙子さんは以前のヒマラヤ登山で手の指を第2関節から10本すべて失い、足の指は2本残して8本失っていたが、今度は手の指を全部付け根から失ってしまう。

手術の辛さを経験し、指を失うという厳しい現実を前にしながら、人間は強いものだと思う。あきらめかけた登山への思いを復活させ、城ヶ崎でクライミングを再開する。それを見ていた他のクライマーが「もう登ることができるなんて、医学の進歩というのはすごいですね」と語りかける。

これに対し、山野井が「医学は基本的にただ指を切るだけなんです。すごいのは、もしかしたら僕たちかもしれないんです」と、突っ込みを入れたくなった-と沢木は書く。そうだと思う。人間の生命力の強さは想像以上のものがあるのだ。しかも女性は強い。妙子さんの凍傷手術に耐えるエピソードはそれを示している。

山野井は、最近日経新聞のインタビューも受けた。夕刊に3回にわたって連載された記事の最終回で「80歳になっても妙子と小さな岩でも登れれば最高の人生だと思っている」と話している。妙子さんをパートーナーとして大事に思っている言葉だろう。

その後で「クライマーは山で死んではいけないといわれるが、山で死んでもいい人間もいる。その1人が僕だと思う。山で死ぬことはごく自然なことで、ある日突然死が訪れても覚悟ができている。どんな悲惨な死に方をしても悲しんでほしくはない」と語る。私にはとても理解できない心境だが、これがクライマーとしての山野井の本音なのだろう。

人はなぜ山に登るのだろうか。この本や日経のインタビューによると、山野井は少年時代「モンブランの挽歌」という山岳映画で、絶壁を登るクライマーの姿から「やりたいのはこれだ」と思い、ロッククライミングにのめり込む。一方、妙子さんは、友人に誘われた登山で山の虜になったという。2人は好きな山のために生きている。私とは全く縁のない世界だ。だが、2人のような生き方に惹かれるのも事実である。