小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

342 2人の先人を思う 長崎の天主堂にて

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大浦天主堂で結婚式を終えた2人) 長崎は、坂の街である。高台のグラパー邸に行くと、それが実感できる。グラパー邸に行く前にオランダ坂を歩き、さらに大浦天主堂を回った。そこでは結婚式を終えたばかりのカップルたちを見た。先月のチェコプラハ、昨年の鎌倉鶴岡天満宮といい、なぜか観光地で結婚式に出会う。大浦天主堂で幸せそうな2人の姿を見たあと、他者のために自分の命をささげた2人の先人の資料に接した。その生き方に胸を打たれた。 1人はマキシミリアノ・マリア・コルベ だ。1930年にポーランドから来日し、大浦天主堂で6年間の生活をした。この教会は、豊臣秀吉によって弾圧された26人の殉教者に捧げるために1865年」(元治2)に建てられた伝統的建造物である。祖国に戻ったコルベを待ち構えていたのは、ヒットラー率いるナチス・ドイツだった。周辺国までに及んだユダヤ人狩り、それはポーランドにも波及する。コルベはユダヤ人ではないが、反ナチとして捕らえられ、アウシュビッツに送られる。 そこで脱走者が出たという理由で10人が餓死刑になる。無作為で選ばれた人たちで、その1人のフランツィシェク・ガヨウィニチェクが「私には妻子がいる」と叫んだ。これを聞いたコルベは「カトリック司祭で家族がいない私が身代わりになる」と申し出た。その結果コルベと9人は餓死室に入る。 9人は励ましあいながら最後の日々を送る。2週間が過ぎ、息があったコルベを含む4人は、フェノールの注射という方法で薬殺される。ナチの非道さというのは簡単だ。悔しいことだが、人間はここまで残酷になることをコルベの死は証明している。コルベを題材にして曽野綾子遠藤周作が作品を書いている。大浦天主堂内にある書店には、コルベを含めたキリスト教関係の本が並んでいる。 大浦天主堂を訪れた翌日、原爆資料館に行った。以前にも足を運んだが、再び資料館に入り、粛然とした思いで時間を送った。広島でも同じ気持ちを抱いた。大量破壊兵器でおびただしい人たちが一瞬にして命を失った。だれもが広島、長崎では鎮魂の思いになる。 ここでは、原爆の負傷者救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ永井隆博士のコーナーを見て「他者のために生きることとは何か」と考えた。永井は長崎医科大の助教授の時に被爆した。しかし、それでも原爆被害者のために生きる。放射線医学を専攻した永井は、原爆投下前には白血病に侵され、余命3年と宣告される。そして原爆の被ばくという不条理が続く。永井は、自分を投げ打って、被災者のために働き、原爆に対する体験、記録を書き続ける。 4年後、永井は短い生涯を閉じる。クリスチャンだった永井は、原爆投下について「神の摂理だ」という説を述べている。この言葉に対し米国に利用されたという批判が少なくない。だが、そうではあるまい。敬虔なクリスチャンとしての思いの発露と考えるべきなのではないか。 長崎で何度か静かな鐘の音を聞いた。それはコルベや永井や多くの原爆被害者への鎮魂の音だと思った。浦上天主堂では、10月12日、文化勲章受賞者の日野原重明医師や作家の柳田邦男さんの講演を中心にした「メメントモリ」(命の大事さを学ぶセミナー)の催しがあった。バイオリニストの川井郁子が名器、ストラディバリウスで演奏したバッハの3曲(ガボットG線上のアリア、アベマリア)が心に響いた。
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大浦天主堂
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浦上天主堂
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浦上天主堂のパイプオルガン)
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(グラバー邸から見た出島方面)