小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

260 里山にて いまが旬のタケノコ

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里山の定義は、次のようなものだ。集落、人里に接した山、あるいはこうした地形において人間の影響を受けた生態系が存在している状態を指す言葉である。(ウィキペディア) 友人に誘われて、近郊の里山に入る。温泉から出た直後に携帯電話。タケノコを採りに山に行かないかと。 家族は、大賛成。一緒のhanaもうれしいのか、山に向かう車のなかで尻尾を振っている。ふだん山に入ることはない。待ち合わせ場所で友人と合流する。狭い道を入っていく。そこは里山だった。 車を降りる。急斜面の上に竹林が広がる。かぐや姫はこんな竹やぶで拾われたのかと思う。急斜面を息弾ませて上ると、うっそうとした竹林だ。 落ち葉の下に隠れていて、タケノコはなかなか見つからない。斜面を上っていくと、ちょっとだけ、頭をのぞかせたタケノコが見える。友人が用意したスコップと唐鍬を使い、周囲を掘り進める。大きなタケノコだ。娘と交代で掘る。汗が噴き出る。掘り終えるのに10分ぐらい。 上へ上へと歩を進める。少しだけ頭を出し、しかもその色は黄色に近い。「これが最高のタケノコだ」と友人。スコップを持つ手に力が入る。ふと気が付くと1時間以上が経過している。 収穫したタケノコを一ヵ所に集める。こんなにあるとは。用意した背負いかごに入りきらない。同行した友人の親類は、私たちとは別にのこぎりを使い、密集した竹の一部を切っている。里山を守るには、こうした剪定が必要なのだ。 いま、里山の多くは放置されたままだ。人手がないままに草木が生い茂り、荒れている場所がほとんどだ。日本各地で里山保全活動がNPOなどによって続いている。 この竹林も友人たちによって、保全活動が始まった。そこに足を踏み入れ、しかもタケノコを採る。何か申し訳ないような気もする。それにしても、新鮮な山のサチは甘くて軟らかかった。 子どものころ、春になると母と一緒にタケノコを掘りに行った。掘るのは母の仕事だった。その姿は脳裏にいまもある。そしてあきるほどタケノコを食べた。友人の山でタケノコを掘りながら、幼いころを思い出した。母が亡くなって、もう21年になる。