小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

147 「戦争紀行」3 時代を超えて

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「戦争紀行」の続き(完) この作品はまた、著者の感性の豊かさが随所に示されていて、上質な文学作品を読むような味わいの深さを感じ取った。胡弓を弾くボロをまとった目の見えない子供との出会いの場面を私は声を出して読んだ。 「町の方から子供が一人、破けた大きな、うす汚れた麦ワラ帽をかぶって歩いてくる。トボトボと。着ているのは、ほとんどボロだ。布靴も足には大きすぎる。破けている。胡弓を弾いている。盲人だ。白熱の空洞の中を、空ろな眼が宙を見上げて、無心に糸を弾く。その胡弓の調べは、私の胸の中から私の知らなかった悲しみを、止めどなく引き出していく・・・」 子供を見つめる著者の青年兵士としての姿が目に浮かんでくるのである。当時の中国農村の点景として紹介する「ロバ」に関する考察にも、感性が見える。「ロバは絶対の無表情と、機械のような無意志によって、私たちには推し測りようのない、深い悲しみを表しているのだ」。含蓄があるではないか。  一方で、著者は戦場における人間としての弱さも隠さない。第七章「長沙」では次第に徴発術を身につけたことを書いている。無人の現地住民の家に入り込んで鶏や豚を略奪してしまう。理性が働く著者でさえも、天井からつるされた豚肉の脂身の燻製をすべて平らげてしまう。このような光景は、珍しくはなかったに違いない。 政務班の兵士として、部隊の動きに疑問を持ちつつも優秀な働きもする。しかし、どんな場面でも現地住民を見下さない姿勢を堅持しているのは、著者の人間性なのであろう。 3年半後に除隊し、再召集は受けずに生き延びた著者は、中国の民衆の日本軍に対する怒りの眼を思い出しながら「戦争はいつか、また何らかの形で日本に襲ってくる、と思わなければならない」と書く。 そして「今度日本に襲いかかる戦争は、巨大な破壊と死をともなって来るだろう。そのためにも侵略戦争を起こす者と闘わねばならない。不幸にしてそうした情況で死に襲われた国民は、侵略者に対する憤怒の眼をむいて死ななければならないー虚脱状態で侵略の死に屈することがあってはならない」とも考える。 それは、国際関係が不安定な21世紀に生きる日本人への適切、かつ重いメッセージだと私は思うのだ。 著者が危惧している通り、21世紀になっても世界から戦火は消えない。イラク情勢は泥沼化し、イラク戦争を収めたはずのアメリカもお手上げ状態の印象が強い。中東情勢もきな臭さが消えず、核開発に走る北朝鮮の動向も油断はできない。 こうした時代にあって、戦争の実態をつぶさに描いたこの作品は、時代を超えて重い意味を持つのである。