小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

146 「戦争紀行」2 学生兵士の体験とは

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前回の「戦争紀行」の続き。 その後英文科に転科するが、1940年春、召集令状が届き、輺重兵(しちょうへい、軍需品の輸送や補給に当たる兵のことで、旧陸軍の兵科の一つ)として仙台の輺重ニ連隊に入営、訓練後汽車を乗り継ぎ大阪港から中国戦線へ渡り第十三師団(漢口周辺で作戦を展開)の兵隊になる。 当初は初年兵として糧秣の輸送や馬当番、炊事当番に従事し、さらに政務班(情報係)となり、中国各地を回るのである。 作品には印象深いシーンがいくつも登場する。小沖口の小学生に著者が日本語を教えるために先生になり、体の部分を教える場面(第六章)はユーモラスである。そして中国の子供たちには「走れ、眼をむいて、キタナク走れ・・・中国の子供よ。そして一等になれ・・・」(同)とエールを送る。著者の心根の優しさがしのばれる記述である。 現地の保安隊という組織(自警団)から抗日(日本への抵抗運動)の歌まで教えてもらう著者は「いまおれが踏んでいる土の下に、何千年にもわたって生きてきた何百万人もの百姓の汗と血・・・そして骨が埋まっている」と、前線にあっても「ものを考える兵隊」だった。 「鬼」といわれた日本兵の一人だったにもかかわらず、小学校の先生をしているという若い女性を逃がし(第七章)、現地の子供達から「杉山のおじさんは中国人が日本人に化けたのだ」(第八章)といわれ、さらに朝鮮独立運動義勇軍部隊から「貴下は日本軍のもとで勤務を強いられているわが朝鮮同胞に違いない」と(同)と義勇軍への参加を勧誘される。 こうした数々のエピソードから、著者が異質な兵隊だったことがうかがわれるのである。著者は行軍中に、足の傷が悪化して野戦病院に入院する。さらに、死と隣り合わせた多くの戦闘にも巻き込まれる。 戦争という場面での死については「ワーグナーのオペラのような壮大な死の賛歌はこの兵隊には鳴り響かない。ただ音もなく死がこの兵隊をさらっていく」とその悲しみをつづる。従軍記者が兵隊たちから押し飛ばされるのを見て「新聞記者って可哀そうな商売だな」と思いながらも、著者自身も後に同じ職業を選ぶのだから、人生とは不可思議なものだと思う。 国民党軍の早朝攻撃を事前に知らされて難を逃れ、作戦行軍中の渡河で急流に流されそうになるが助かるなど、不思議な運が働いたのも著者の生命力の強さなのだろうか。 軍隊というところは大隊長に命令されれば「人殺し、放火、ブチコワシ・・・を、他の兵隊に負けず、一生懸命やっている」恐ろしいところだと述壊する(同)が、その大隊長が前進を止め、山の中腹に腰を下ろしながら「おい杉山・・・おれは疲れたよ」の本音を漏らす場面は人間の弱さとはかなさを象徴しているように思えてならない。(続く)