小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

109 私が住んだ街5・秋田市 懐かしい人々

狭い街である。目抜き通りを歩いていると、必ず知り合いに会った。それだけに濃密な人間関係があった。それが秋田で住んだ印象だ。アパートに住んだ。引越し荷物の整理が終わり、隣に住む大家さんの家に挨拶に行く。

すると、夕食を食べて行くよう誘われた。もう6時を過ぎていたのだ。ありがたくご馳走になった。大家のご主人は高齢で、秋田弁で話す。私には何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。

奥さんがビールと料理を出してくれた。いままで見たこともない焼き魚が目の前にあった。それが「ハタハタ」だった。もちろん、食べたことはない。うろこのない珍しい魚である。

恥ずかしい思いをしながら、魚の名前を聞いて、納得した。秋田はハタハタ漁で知られていたからだ。恐る恐る食べてみる。さっぱりした味だ。腹のほうから、卵が出てくる。それがブリコだと教えられた。これは秋田で暮らし始めて1週間目の夜のことである。

仕事で、秋田市に行くことになった。職場が用意してくれたアパートは、4畳半一間で、トイレは共有、風呂はない。しかも部屋のすぐ近くにトイレがあって、ドアを開けるとトイレの臭いがする。荷ほどきしないままに1週間を暮らし、先輩の紹介で少し条件のいい部屋に移った。それが大家さんがハタハタをご馳走してくれたアパートだ。

貧乏な時代だった。それでも、自然も女性も美しく優しい。飲めない酒も少しずつ飲めるようになった。先輩たちとの交流、頑固一徹の職場の代表は私たちを自分の子供のように時には厳しく、時には優しく接してくれた。

それにしても、秋田の人々はよく酒を飲む。酒が飲めなかった私が、人並みに酒を飲めるようになったのは、秋田で生活したお陰である。

秋田の人は言う。「日本で一番四季の移り変わりがはっきりしているのは秋田だ」と。これまでいろいろな街に住んだが、たしかにそう思う。秋田に住んだ証として、娘には秋田市の公園の名前を付けた。