小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

110 千の風になってを思う  癒しの歌でも

 いま「千の風になって」という歌と詩が静かに全国に広まっている。この詩の由来については、いまさら書く必要がないほど、いろいろな新聞や雑誌、テレビ、ラジオで紹介されている。

  肉親や親しい人を亡くし墓の前にたたずむ人に「悲しまないで」と呼びかけている歌である。詩によると、故人になったとはいえ、私はお墓には入っておらず、千の風になって大きな空を吹き渡っているというのだ。

 その意味を解釈すると、いつも風になって、家族や愛しい人を見つめているということだろう。この歌を聞いて、肉親を失った悲しみが薄れたという人も少なくないと聞く。日本人の死生観は、亡くなった人の魂はお墓の中に眠っているということではなかったか。

 だが、吹く風とともに、いつも見守っていると思うと、喪失感に打ちのめされていた遺族たちの心も癒されたに違いない。

  しかし、そうした感情はすべての人に当てはまる訳ではないことに、私たちは気を遣う必要がある。それはご主人を数年前に亡くした近所の方の例が示している。

  会社勤めのご主人は、定年退職後悠々自適の生活を送っていた。しかし、定年後数年で病に倒れ、半年ほどの闘病後この世を去った。子どもたちはみな結婚していて、夫婦2人の生活を送っていたので、残された夫人の喪失感は大きかったと思われる。

  子どもたちは週末には必ずやってくるが、それでも1人でいる時間が多くなった。寂しくなると、夫人は亡くなった夫の墓に行き、いろいろ話しかけ時間を過ごす。それで、孤独感から立ち直るのだという。

  そんな夫人が「千の風になって」を聞いて、違和感を抱いたというのである。「私は夫の墓に行き、夫に話しかけるのが安らぎなのです」と。そして「千の風になってという歌は私は嫌なのです」とも言う。そうした感想に、だれも異論を唱えることはできないだろう。                           (07.4.13)