小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

78 映画「それでもボクはやっていない」 裁判の現実を丹念に描いた周防作品

あと2年少しで「裁判員制度」が始まる。重大刑事事件の裁判に国民から選ばれた裁判員6人が3人の裁判官とともに立ち会い、被告が有罪か無罪かの判断をするのである。その裁判員制度のスタートが迫っている中で、「Shall We ダンス?」の周防正行監督が、11年ぶりにメガホンを取った映画が話題になっている。

電車で痴漢に間違えられた26歳フリーターの青年が主人公だ。青年は逮捕段階から無実を主張するが、起訴されて裁判になる。この裁判を通じて、日本の裁判制度の現実をえぐったのがこの映画である。

電車通勤をしている男性には、これが映画の中だけのことではないことを実感として受け止めることができよう。一方、女性の側から見れば、痴漢被害が日常的に続いている現実があり、他人事とは思えない映画なのである。

痴漢事件が発生する。女子高校生は確かに被害を受ける。すぐ後ろにいた青年が犯人と思い、駅員に突き出す。ここから「冤罪」の構図が始まる。駅員は、一緒に来た別の女性が「この人はやっていない」というのに、取りあわずに事務室の中に入れない。警察は初めから青年がやったに違いないと、見込み捜査をする。

だから、「スーツが電車のドアに挟まってしまい、外そうとして引っ張り続けた」という青年の重要な供述を調書に取らない。担当の副検事も、青年の言い分を聞かず、長期間青年を拘留する。

良心的な弁護士がつき、裁判でも青年の無実が晴れようとする。担当の裁判官も「疑わしきは被告人の利益に」という原則論を信ずる良心派だ。映画の観客は、こうした経過を見て青年の無罪を確信するはずだ。

しかし、どんでん返しが用意されていた。担当の裁判官が突然替わったのだ。がらりと法廷の様子は変わる。この裁判官は青年の訴えに耳を貸さない。青年をかばった女性が見つかり、彼女が証言したにもかかわらず「有罪判決」を言い渡す。

極論だが、刑事裁判は警察・検察の捜査を追認する「捜査の応援団」という見方がある。起訴された刑事事件の有罪率が99・99%という背景があるからだろうか。逆に、刑事裁判で、被告が無実を主張するケースは少ないということなのだろう。

それゆえに、多くの裁判官は被告の主張を疑いの目で見てはいないだろうか。青年の事件を途中から担当した裁判官は、この典型のように私には思えてならなかった。

このような痴漢事件(迷惑防止条例違反)では、裁判員が審理に入ることはない。だが、仮に裁判員が審理に入っていたら、確実に青年は無罪になっていただろうと考える。青年は人生の岐路に立っていた。しかし、裁判所の人事という都合によって青年はいばらの道を歩き続けることなる。

裁判員制度の導入によって、裁判所がどう変わって行くのか。この映画は、裁判に対して国民の目を向けさせる大きな役割を果たすのではないだろうか。主役を務めた加瀬亮の戸惑いの表情が、印象に残る映画だ。