小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

957 労苦の鉄道の旅 下川裕治・ユーラシア横断2万キロ

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 沢木耕太郎は「旅する力」という本の中で、「旅には適齢期がある。旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことだが、齢を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思える」と書いている。

 旅行作家、下川裕治は、ユーラシア大陸2万キロの鉄道の旅をした。その旅行記「世界最悪の鉄道旅行」(新潮文庫)を読んだ。ひたすら鉄道に乗り、ゴールのポルトガルの西端に到達することだけを目的にした鉄道の旅を終わった56歳の下川は、沢木の言うように決定的なものを得ることができなかったのだろうか。

 下川とカメラマンの2人は、東京からサハリン経由でシベリアに入り、列車の旅を始める。ゴールのポルトガルまで、その旅程を見ると、まさに「東から西への横断」だ。車中26泊、乗継27回、国境越えは15回。本の帯にあるように「ボロボロの旅」だったに違いない。それだからこそ読み手はハラハラドキドキの展開に引き込まれ、下川らと旅をしているような錯覚さえ覚えるのだ。 

 この本は単なる旅行記ではない。トルコが親日的な国であることは知られているが、トルコと周辺国の関係を詳しく知っている人はそう多くはないのではないか。アルメニアアゼルバイジャンという隣国同士の紛争(ナゴルノ・カラバフ紛争)に対し、トルコはアゼルバイジャンの味方をしたという。

 第一次世界大戦の際、アルメニアでは150万人もの国民が虐殺された。 当時、トルコはオスマン帝国時代だったが、トルコは大戦中の犠牲だと主張して責任を認めていない。さらに、トルコ人アゼルバイジャン人は兄弟といえるほど近い民族であり、これらが3国の現在の微妙な関係の背景にあるという。

 私は、これらの歴史を含めた3国の関係をこの本で初めて知った。 前を走る貨物列車が爆発テロに遭遇し、行ったり来たりしたロシア領内の中央アジアの旅も困難だった。爆破テロなどどこ吹く風と列車を降り時間をつぶす乗客の姿、テロの背景にチェチェン共和国をめぐる歴史があることなど中央アジアの現実も教えられた。 26歳の沢木は、「深夜特急」で若者の感覚で適齢期の旅をした。

 一方、56歳の下川は、疲れと闘いながら目的地のポルトガルに向かって様々な列車に乗った。もちろん、何でも見てやろうという沢木のような、若者の旅とは違う旅だった。それでも、前に進もうという下川ら2人の感覚は日本人そのもので、共感を持つ。 下川は「トラブル続きの旅は世界最悪の鉄道旅行というタイトルになったが、なんとか乗り越えたいま、やっぱりいい旅だったかも・・・と思うのだ」と書いている。

 達成感があったのだろうから、決定的とはいえないまでも、何かを得たのではないか。 日本の鉄道は時間が正確だ。それが普通と思っている。だが、この本は海外の鉄道ダイヤがいかにいい加減かを多くのエピソードを挙げて裏付ける。本を読み終えて、仕事とはいえ世界最悪の鉄道旅行をしたという、下川とカメラマンにねぎらいの言葉を贈ろうと思ったくらいだ。