小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

449 進取の気性 中津の人々

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 慶応義塾の創設者、福沢諭吉は大阪にあった大分・中津藩(現在の中津市)の蔵屋敷で下級藩士の次男として生まれた。現在、中津市には子ども時代を送った生家が記念館として残されている。 中津は寺の多い街で、JR中津駅から「寺町」という町名が付いた静かな通りを歩いて記念館に向かった。

 人の姿はまばらで、寺町通りは静寂に包まれていた。のんびりと歩を進めた。 バラの美しい家があった。その見事さにカメラを向けた。庭先にその家の人らしい女性の姿があった。日焼けを防ぐためにか、帽子をかぶり顔も手ぬぐいで隠している。

 バラは病気に弱い。「見事なバラですね。消毒をしているのですか」と聞いてみた。「消毒はやっていません。ですから、手入れが大変なのです」と女性は答える。 肥料をきちんとやり、花柄を摘み、黒星病になった葉を取っていく。そんな作業を黙々とこなしているに違いない。庭全体を覆うバラなのでその作業は容易ではないはずだ。

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 少年の諭吉も、この静かな寺町を散歩したのだろうか。諭吉は大阪の緒方洪庵適塾蘭学を学び、オランダ語を習得した。しかし、日米修好条約調印後に英語の必要性を痛感した彼は、咸臨丸の艦長、木村摂津守に頼み込んで1860年(万延元年)米国に渡る。(咸臨丸の指揮官は有名な勝海舟だった) 彼は「独立自尊」(心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ)という言葉を残した。進取の気性が読み取れる。中華思想儒教精神という日本の考え方を西洋文明重視に改めたのだ。

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 中津市には「沖代すずめ」という老人サロンがある。吉田日出子さんが一軒家を借り、ボランティアとともに老人のための「居場所提供」をしているのだ。 昼過ぎに訪ねると、98歳を最高齢に70代以上の「元気」なお年寄りたち約20人がこの家でカラオケを歌っていた。午前10時に集まったお年寄りたちは、おしゃべりをして時間を送り、昼食後にカラオケを楽しむ。

 さらにティータイムのあともカラオケ時間があり、午後3時まで仲間たちとの愉快な一日を送るのだ。 お年寄りたちは大事にされていた。みんな楽しそうな顔をして手書きの歌詞を見ながら懐かしいメロディーを歌っていた。ボランティア活動に半生をささげた吉田さん自身も70歳になった。

 しかし、老いの影は全く見られない。老人を送って車を運転する吉田さんの表情から、独立自尊の精神を感じた。 杉田玄白らとともに解体新書を書いた前野良沢も中津の出身だ。人ができないことをやるという気構えこそ独立自尊、進取の気性であり、福沢諭吉前野良沢以来の中津の伝統なのだろう。それが沖代すずめの吉田日出子さんの血にも流れているように思えた。