文芸評論家の秋山駿さんは「何でもないものが好きだ」という。(6月6日日経新聞夕刊)それは「特別の意味があるわけではなく、何の特徴もなく、平凡で何処にでも在りそうなもの」なのだそうだ。そして「何でもないないものを輝かす文章を好むようになった」秋山さんは、そうした文章は、詩人の随筆というジャンルの中にたくさんあったと書き、これらの文章は「生きることを喜び、その喜びを深くするために、愉しんで書いている。愉しく書くそこから、命の声が静かに聞こえる」と、結んでいる。
秋山さんの文章を読んで、平凡な日常を送ることは大事だなと思った。人から見れば何でもないことでも、意味があるのである。しかし、ある日、突然平凡な人生が見ず知らずの人間によって奪われる。そんな時代になっている。秋葉原の7人の命を奪った通り魔事件は、おぞましい限りであり、理不尽な出来事だ。
たまたま、この事件の前日の7日、聖路加国際病院理事長で、96歳のいまも現役として活動している日野原重明さんの講演を聴く機会があった。日野原さんは、10歳の時母の重病、祖母との死別を経験、「命」について考えるようになり、20年以上全国の小学校で10歳(4年生)の子どもを対象に「いのちの授業」を続けている。ライフワークは命の大切さを子どもたちに伝えることだという。
日野原さんは講演で「いのちとは一人ひとりが持っている時間のことだ。そして自分以外の人のために時間を使うことだ」と子どもたちに教えていると語り、96歳にして、これからの時間を子どもたちのために使うと強調した。
日野原さんの講演を聴いた翌日、秋葉原の事件が起きた。その落差に衝撃を受けた。秋葉原の犯人は「人を殺すため、静岡から来た。だれでもよかった。世の中が嫌になった。生活に疲れた」と動機を話しているといい、自暴自棄で他人の時間を奪ったことが明らかになっている。
人として生まれた以上、他人のために時間を使うべきなのに、自分のために他人の時間を奪うという行為をどうとらえていいのか。私は無力感に襲われた。
秋葉原には不特定多数の人が集まる。それを見越した上での犯行だった。「いのち」について、通り魔事件で考えるのはつらかった。偶然、秋葉原に出かけ、偶然に犯人と遭遇し、犠牲になった人たちには、もう平凡な日常は戻らないからだ。