小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

271 サイクロン・地震と続く自然の脅威 極不平凡的一年

 ミャンマーのサイクロン、中国の地震。前者は10万人の死者・不明者、後者は1万人の死者ときょうの夕刊時点で報道されている。四川省綿陽市で1万8645人が生き埋めになっているという新華社の報道もあり、被害はさらに拡大する恐れが強い。胸が痛む自然災害である。

  同じアジアの一角でこうした大きな自然災害に見舞われた住民は不幸だ。自然災害とはいうものの、実は「人災」の面も少なくないと思われる。

「天災は忘れたころにやってくる」という格言は有名だ。寺田寅彦作といわれる。しかしまとまった言葉で寺田が文章にしたものは残っていないという。講演会などでいつもこのような趣旨のことを話していたため、いつしか寺田の格言として現代に伝えられているのである。

  寺田に言わせると、災害に対し備えをきちんとしていれば被害は最小限にとどまる。ところが、私たちはいつ来るか分からない自然の脅威に対し、十分な対策をしないまま毎日を送ってしまう。そうした国民に対し注意喚起し、対策を講じるのが国の責任だ。

  しかし今回のミャンマー、中国ともそうした対策はなかったとしか言いようがない。ミャンマーの死者、行方不明者のほとんどはデルタ地帯といわれる低地に住む人々で、多くの家屋が浸水し水没した。軍事政権はこうした地帯で堤防を築くなり、避難訓練、あるいは避難誘導などの対策をしていたのだろうか。国際社会からの人的な救援も断るのだから、国民よりも政権維持が大事なのだろう。こうした姿勢こそ人災といえる。

  一方、中国四川省を中心にした地震による死者は、倒壊した建物の下敷きになったケースが目立つという。なぜ建物が倒壊したのか。「建築物の耐震性の低さや公共施設の手抜き工事により被害が大きくなったという声が住民の間から公然と出ている」と読売新聞は書いている。

  手抜き工事は「おから(豆腐殻)工事」ともいう。これは役人への賄賂を渡した悪質な業者が手抜き工事を見逃してもらったことを言うのだそうだ。読売新聞は「幹部が使用する建築の耐震性は厳格に守られるが、学校など民衆のための建築では手抜きが横行している」と報じている。これも人災ではないか。

  20世紀最大の自然災害といわれた中国の唐山地震(1976年)では、死者は24万人と中国当局が発表している。だが、その倍以上の被害があったという指摘もある。残留婦人といわれた知人が地震直後の北京の様子を話してくれたことがある。

  彼女は数十年ぶりで日本に里帰りしたあと、中国に戻った。すると、北京の街は仮設の避難用テントが林立していて、多くの人々が住宅には入ろうとしなかった。それだけ、建物が地震に弱かったのだろう。東北地区へ帰る列車待ちのため北京で宿を取ろうとしたが、見つからずに難渋したという。

  この年、中国は「極不平凡的一年」(きわめてただならざるいちねん)といわれた。1月の周恩来の死去、4月の鄧小平再失脚につながる天安門事件、7月の革命の英雄・朱徳将軍の死去と唐山地震、9月の毛沢東の死去と4人組逮捕が続き、知人のジャーナリストをして「記者冥利に尽きる年だった」といわしめた。ことしの中国は1976年に近い雰囲気がある。北京五輪の開催は大丈夫なのだろうか。