小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

262 そうか、もう君はいないのか 城山三郎の喪失感

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 出会いと別れは人生には付きものだ。それが人生だとしても、だれもが別れの悲しみは味わいたくないと思う。 作家の城山三郎は、最愛の妻を自分より先に亡くし、その回想記をひそかに残した。死後、その未完の原稿が見つかり、刊行されたのがこの本だ。切々とした城山の亡き妻への思い、別れの悲しみ,喪失感が行間から伝わる。

 出会いから別れまでを城山は可能な限り忠実に再現する。休館していた図書館での偶然の出会いと別れ、数年後の再会と結婚、新婚旅行のうれしくも恥ずかしい思い出と続き、妻との結婚生活から作家への歩みを自分史のように記す。 そして、妻のがんとの闘病生活。診察を受け、がんと告知されながら歌を歌いながら病院から帰ってきた妻を抱きしめる城山は、妻が余命数ヵ月とは知らない。

 城山は、妻が元気なころ「妻」と「愛」という2つの詩を書いた。読んでいて照れくさいほどだが、率直に妻への愛を書く城山の姿勢にうらやましささえ感じる。 妻の回想記なのだが、城山の作家としての生き方をも淡々と綴っている。あとがきで二女・井上紀子さんは、母を亡くした後の父・城山の憔悴ぶりから次第に衰え、亡くなるまでの7年間を記す。

 城山の原稿と同じくらいに井上さんの文章は光っている。 それは両親を思う気持ちが素直に表現されているからだろう。ここで井上さんは、母の余命が少ないことを医師から告げられたが、母にも父にも教えなかったと書いている。子どもとしてはそれしか選択肢はなかったのかもしれない。

 妻を亡くし、虚脱状態の城山はある日「そうか、もう君はいないのか」とつぶやいた。それは、最愛の人を失った人たちに共通する思いに違いない。そして、男は女よりも弱い人間であることに読者は気付くはずだ。 人間の一生は短い。しかし、いい人たちとの出会いがあるからこそ生きる意味がある。電車の中で一気に読み終えて、こんなことを思った。