小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

157 『にんじん』を読む 残酷な少年の物語

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 本棚にあった古い文庫本を手に取った。紙にはしみが入っている。もう何十年も前に買った本だ。フランスの作家、ジュール・ルナールの『にんじん』だった。 小学校時代の教科書にこの小説の一部があり、勉強したことを覚えている。そして、この小説をきっかけに、私は少年時代、友だちから「ぼこねんじん」というあだ名で呼ばれた。

「にんじん」は、両親と兄、姉の5人家族の一番下の子どもだ。赤い毛、顔がそばかすだらけのために家族から「にんじん」と呼ばれ、いつもおどおどとしている少年だ。母親はにんじんにいつもつらく当たく。まるでいま問題になっている子ども虐待みたいだ。にんじんが寝小便をすると、その一部をスープに入れて、彼に飲ませるくだりもある。 そして、にんじんはなかなか頑固で、暴力的な少年だ。

 解説で詩人の宗左近氏が「この書物は残酷物語だ」と書いているように、にんじんは残虐な行為を次々に繰り返す。それは、愛に飢えた少年の母親を求める裏返しなのかもしれない。シャコ(シャコ貝)の頭を靴で踏んで殺し、もぐらを石にたたきつけてなぶり殺し、猫の顔の半分を銃で撃ってしまう。 動物へのこうした行為だけでなく、自分が入っていた学校の寄宿舎の舎監と生徒の関係が怪しいと校長に告げ口して、この舎監を首にさせ、年老いた自宅の女中には、やめなければならないようなへまの元をひそかに企て、成功させるのだ。

 113年前の小説だ。だが、時代は変わっても、同じような少年、少女はルナールのフランスだけでなく世界の各地に存在するのではないか。いや、現代の日本には少なくないように思ってしまう。 父親はいつも忙しく、口うるさい妻に子どものことは任せる。長男、長女は母親とはうまくやっている。しかし、にんじんのように、見た目も悪い末っ子は、家庭内では居場所があまりない。いつも母親の目の敵にされてしまう。そして、非行に走ってしまう。

 にんじんが、どのような大人になっていくか、想像は膨らむ。たぶん、フランス人らしくエスプリ(機敏な才気)精神を発揮して、自分の意思を貫いた人生を送ったのではないか。自分の子ども時代の寂しさを忘れず、結婚して子どもが生まれたら、家庭第1の父親になったのではないかと勝手に、ストーリーを考えるのだ。

 薄い文庫本でも、私の読書の時間は濃密だった。「にんじん」から、本を繰り返し読む楽しみをあらためて感じた。 実は少年時代の私は、顔にそばかすがいっぱいあった。教科書でこの小説を知った友だちの1人が私を指して「にんじん」というべきところを、なまって「ねんじん」と言い出し、さらに頭の格好が悪いので「でこぼこ」のぼこを加え「ぼこねんじん」というあだ名を付けたのである。

 この友だちは、コピーライターの素質があったのではないかと感心する。いま彼は音楽の道を歩んでいる。私自身は、盲腸を取ってからそばかすが消えたが、数年前に会った彼は、私のことを「ぼこさん」と呼んだ。それは懐かしい響きだった。