小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

104 桜の命は60年 花見の季節に思う

 日本列島を桜前線がじくざくと進んでいる。本来なら、「北上中」という表現を使うべきなのだが、ことしはこの表現を使えないほど各地の気候がおかしい。

  東京では、満開になったと思ったら、19年ぶりに4月になって雪が降った。それでもいま各地で日本の花の代表が人々の心を癒してくれているのである。その桜の命が60年と聞くと、意外に思う人もいるだろう。私も実はその1人だった。

  桜の命60年説は、どうも正しいようだ。なぜそうなるのか。最近のテレビで興味ある報道があった。

  それによると、多くは別の桜を台木にして、ソメイヨシノなどを接木して育てていく。その際切り口から幹を腐らせてしまう菌が入り込み、成長するにつれて菌も繁殖、次第に桜の幹が侵され、ひどくなると大きな空洞ができてしまう。こうして60年前後で桜の木は弱ってしまい、枯死状態になる。

  日本の多くの公園の桜は、戦後間もなく植えられたものが多いそうだ。ことしは戦後62年だ。とすると、これらの桜の寿命も尽きかけていると思われる。

  命あるものはいつかはその命が尽きる。それにしても、桜の寿命が人間よりも短いとは、はかないものだ。もちろん、長命の桜が日本各地にあることはいうまでもない。それは「桜守」といわれる人々が、愛情を持って手入れをしているという背景があることを忘れてはなるまい。

  日本人は昔から花見が好きな国民だ。奈良の吉野山、青森の弘前公園、長野の高遠城址公園を桜の「3大名所」と呼ぶそうだ。この3ヵ所の桜を見た人は少なくないだろう。ここ以外にも美しい桜は多いが、代表的な名所であることに異論はないはずだ。

  私の散歩コースにも数十本の若い桜があり、いま満開だ。これらの寿命が60年しかないと聞くと、愛おしさに似た感情が湧いてくる。世阿弥の「西行桜」という能は、西行の庵にある老木の桜の精の「翁」が、京都の春景色を語りながら舞うものだが、あの若い桜に、西行桜のように、桜の精が棲みつくことはあるのだろうかと、ふと考えた。