小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

12 神様は海の向こうにいた(2)

 神様は海の向こうにいたの中で、私の姉が書いた作品を紹介します。

  ◎父の顔を知らない弟と妹

  父が戦地へ

  私が国民学校5年生の夏の夕方のことでした。私は馬小屋に麦わらの束をほどきながら、投げ入れていました。その時、風呂に入っていた父は「これからもそうやって、かあちゃんの手伝いをしてくんなよ」と言ったので、私は何気なく「うん」と返事をしましたが、これが私と父の最後の会話になってしまいました。

  その翌日、父は召集され、兵隊に行きました。35歳の「年とった兵隊さん」でした。

母はある時「お父さんは家を出るとき、後ろを振り返り振り返り、門口を出て行った」と私たちに語ってくれたことがありました。いつまでも、その光景が数コマの動画のように母の頭に焼きついていたようです。

  父は怒ったことのないやさしい人でした。2年生のときだったでしょうか。雨の中、傘を持って学校帰りの私を迎えに来てくれたことがありました。私の心のアルバムにこのときの父の姿があります。今でも思い出されます。

 父が召集されたあとには、祖母と母、そして私たち子ども4人、そして、母のおなかには3カ月の赤ちゃんが残されました。その秋、父は訓練を終えて、いよいよ戦地に発つというので祖母、母、妹、弟が江ノ島に面会に行きました。どの兵隊さんも妻や子どもがいる人たちで「死にたくない、死にたくない」と言いながら、戦地に行ったそうです。

  苦労した母

  私の家は農家なのに、男手がなく、祖母や母は言葉では言い表すことができないほど苦労をしました。時には親戚の人や近所の人たちに大変助けてもらいました。また、女学生が「勤労奉仕」といって農作業の手伝いに来てくれたこともありました。

  ある秋の日でした。家で飼っていた馬がサツマイモのつるを食べ過ぎて死んでしまいました。家族同様に大事にしていた馬が死んで、かわいそうで家族で悲しみましたが、父の身代わりになってくれたんだと、みんなで慰めあいました。

  それから、母は、父が生きて帰ってくるようにと、毎朝近くの神社に「お百度参り」をしました。朝暗いうちに、神社に行って父の無事の帰りを祈るのです。途中で人に会うと願いがかなわなくなるというのですが、ある朝、山の中でキツネでもいたのでしょうか。「がさっ」という音がしたそうです。キツネでも人と同じでしょうか。

  父の帰りを待ちつづけて

 1945年(昭和20)8月15日。戦争は終わりました。祖母は一人息子が帰ってくるのを楽しみに「背広」を新調して待っていました。しかし、なかなか帰ってきません。とうとうその年も暮れ、翌年になってしまいました。旧暦の五月の節句の日がやってきました。楽しい日になるはずでした。

 ところが、村長さんが直々に父の「戦死公報」を持ってきました。家族はみんな泣き崩れてしまいました。役場には続々と戦死の知らせがあり、職員がその公報を届けていました。ところが職員は、家族の悲しむ姿を見るのがつらくて、私の家には村長さんに届けてほしいと頼んだといいます。

  父は激戦地フィリピン・クラーク地区での戦死でした。その後、母が石川のお寺に遺骨を受け取りに行ってきました。遺骨の代わりに中には「英霊」と書かれた黒い縁取りのはがき大の紙が入ったいただけでした。

 それから私の家では、当分の間、戦争は終わりませんでした。子どもは5人になっていました。意地悪なよその子には「父ちゃんいないべやー」などといわれ、悲しい思いもしました。母は力が出なくなりました。60㌔の小麦の袋を背負いたのに、それが背負いなくなりました。母の気持ちを支えてきた太い糸が、父の死で切れたのでしょうか。

  そのころ、父の大事な遺品だった蓄音機を売って農作業に必要なリヤカーを買いました。父は音痴だったそうでうが、音楽は好きだったようです。今、生きていればカラオケの機器でも買って、下手な歌を歌っていたかもしれません。

  この平和な時代を父にも見せてあげたかったです。

  母との思い出

  母との思い出はたくさんありますが、いっしょに仕事をしたときの母の言葉がいつも私の心の中に生きています。母と2人で畑仕事を終え、作物や草をヤセウマ(背負いはしご)につけて背負っての帰り道、よく一休みした場所が、ねむの花咲く木の下でした。

 口数の少ない母でしたが、優しかった父のことや幸せだった娘時代のこと、楽しかった学校時代のかとなどたくさん話を聞かせてくれました。

 また、ヤセウマを背負って坂道を上ると左手に「若都々古別神社」があり、右手にはお地蔵さまが立っています。

  ぴょこんぴょこんと2度頭をさげて坂道をくだります。

 棚倉にもねむの木が淡いピンクの花をさかせる坂道があります。そこを通るとあのころのふるさとを思い出し、いまでも胸が熱くなります。

  数年前、還暦の同級会に当時の受け持ちの先生がお見えになって、私に話しかけてくださいました。

「私が受け持ちのとき、3人の生徒のお父さんが兵隊に行きましたね」

 と言って、3人の名前をおっしゃいました。3人の父親はみんな戦死したので、先生も長い間忘れることはなかったのでしょう。先生は私たちのことをずっと気にかけてくださっていたのでしょう。うれしくなりました。

 私は目頭が熱くなるのを押さえることができませんでした。先生も私もまだ「戦後」は続いていたのです。                 終わり

 (注)この本の問い合わせは福島県東白川郡棚倉町宮下11-2衣山武秀さんまで