小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1449 村上春樹の旅行記 「貴重な文章修行」

画像最近、村上春樹の『遠い太鼓』(講談社文庫)と『辺境・近境』(新潮文庫)という旅行記を続けて読んだ。前者は1986年から3年間、ギリシャ・イタリアに住み、周辺の各地を旅した記録である。後者はアメリカやメキシコ、ノモンハンという海外の旅と香川県でのうどん食べ歩き、故郷である神戸の街歩きの記録を収録している。かつて、若者が海外の旅でバイブルのようにしていたのは沢木耕太郎の『深夜特急』(新潮社)といわれた。だが、なかなかどうして村上作品も沢木に負けないほど長旅の友になっているらしい。 イタリアといえば人気の観光地である。しかし、ここに住んだ村上は「またいつかは訪れてみたいと思います。もう一度あそこに住みたいとは思わないけれど。」と書いている。観光にはいいが、住むにはどうかという街が日本にもあるが、イタリアで住むことの大変さが『遠い太鼓』にはあふれている。 一方、『辺境・近境』の7編の旅行記のうち、興味を持って読んだのは「ノモンハンの鉄の墓場」である。ノモンハン中国東北部モンゴル国境の地名であり、1939年5月~9月にかけて旧日本軍(関東軍)とソ連軍(現ロシア)による国境紛争事件が起き、ソ連軍に参加したモンゴル軍を含めに日ソ双方に戦死・戦傷者が続出、装備にも甚大な損害が出、日本軍が撃退された。これを「ノモンハン事件」と呼んでいる。この事件をきっかけにソ連が戦術や兵器の改良に取り組んだのに対し、日本軍は事件を隠ぺいし続け、教訓としないまま太平洋戦争に突入、破局への道を走ったことは周知の通りである。 私は、たまたまだが村上より5年前にノモンハンに行く機会があった。1980年代後半のことである。北京から大連まで列車に乗り、大連で乗り換えハルビンまでの旧満鉄が走っていた長い列車の旅を続けた。その後、内モンゴル自治区ハイラルに入り、車に乗り換えて新巴爾虎左旗(シンパルコサキ)という町に行く。どこまでも続くホロンバイル草原の町である。この町のトップ(日本なら町長か)と同行のNさんが昵懇の間柄であり、日ソ両軍が激闘したハルハ河が見える近くまで行った。(もちろん通訳という監視付きだった) 私のこれまでの経験でいえば、一番ひどい目に遭った旅でもあった。トップの主催で開かれた歓迎宴で食べた料理に当たり、その夜からひどい下痢と発熱のため、その後中国滞在中ほとんど物を食べることができずに10日の旅を終えて帰国した時は、体重が5キロも減っていた。(私はいまでもスズメの丸焼きがその原因と思っている。食べようとする私を、つぶれたはずの目でスズメがにらんだように思えたのだ) 詳しい旅の内容は忘れたが、村上の記録を読んで散々だった旅のことを少しずつ思い出している。 村上は、この本で作家として旅行をしている時の様子を明かしている。旅行中は細かく記録は取らず、いつも持っている小さいノートにその都度「風呂敷おばさん」というように、ヘッドラインみたいなメモを書き込む。それは書類の引き出しの見出しと同じで、トルコとイランの国境近くに変わったおばさんがいたなと思い出せるのだという。日時、場所、名前、数字は丹念にメモするが、細かい記述や描写はなるべく書き込まない。記録用のカメラもほとんど使わない。余分なエネルギーを節約して、この目でしっかりいろんなものを見て、頭の中に情景や雰囲気、匂いや音を刻み込むことに意識を集中する―というのだ。村上は旅行記を書くことは貴重な文章修行で、旅行記は小説が本来なすべきことと機能的にはほとんど同じ、とも記している。 人それぞれに旅の記録はあるだろう。過去にカメラを持たずに旅をする何人かと出会ったことがある。心の目で風景や光景を記憶しているのだろう。それは村上の手法と似ているように思える。