小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1127 ベトナム・カンボジアの旅(1)  アンコールワットへの夢果たせず死んだ記者

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都市にはそれぞれの歴史がある。それは日本だけでなく世界中のどの都市にも当てはまる。そしてそこに住む人たちもまた、都市とともに歴史を刻んでいる。東南アジアのベトナムカンボジアのいくつかの都市を旅した。20世紀後半まで戦火に包まれ、多くの国民が血を流し、命を失った悲しい歴史を持つ両国はどう変化したのだろうか。 手元に「コンポンスプーに楽土を見た」(三草社・1982年刊、コンポンスプーは、カンボジアの首都、プノンペン西南の都市名)という本がある。カンボジア内戦当時の共同通信社プンペン支局長で、クメール・ルージュの支配地区に取材に入り、31歳の若さで亡くなった石山幸基記者の記録である。 同書によると、石山記者は1973年10月10日、1年の任期を終えるに当たって当時のロン・ノル政権と戦うクメール・ルージュが支配する「解放区」の実態取材を計画。プノンペンの北40キロのウドン市から単身で自転車に乗り、アンサンダンという村から解放区へと入り、そのまま消息を絶つ。解放区滞在は2、3週間の予定だったが、その後手がかりがないままに時間が過ぎていく。 カンボジアに平和が戻るには、その後クメール・ルージュポルポト独裁政権の誕生、同政権による国民の大量虐殺、ベトナム軍によるポル・ポト政権の打倒、ポル・ポト派含む三派とベトナムヘン・サムリン派との間の内戦、ベトナム軍の撤退、パリ和平協定(1991年10月)―という長い道のりを経なければならなかった。 石山記者が在籍していた共同通信社が現地調査団を編成したのは1981年7月のことで、調査団はアンサンダン村で村人に聞き取り中に出会った隣村のシェム・ボンさんという女性から、石山記者が亡くなるのを看取ったという証言を得る。ボンさんの証言によると、解放区に入った石山記者はカンボジア中西部のゲリラ基地だったクチュール山中で1974年1月20日ごろ、高熱と激しい下痢が続く中、息を引き取ったという。マラリアに腸チフスを併発したものとみられ、発病して約20日後のことだった。 石山記者がプノンペンで取材していた当時、西側の記者の最大のターゲットはアンコールワット遺跡に一番乗りし、その現状をレポートすることだった(谷川平夫・元読売新聞プンペン支局長=同書)という。当然、石山記者もアンコールワット遺跡がどうなっているか気にかけ、現地に入ることを望んでいたはずだが、それは果たせぬ夢になった。 石山記者が消息を絶って、40年近い歳月が流れる。戦火にさらされ、クメール・ルージュにより多くの寺院が破壊されたカンボジアアンコールワットもその例外ではなかった。だが、日本をはじめとする各国の協力で修復作業が進み、1992年には世界文化遺産に登録され、現在は世界各国から訪れる観光客でにぎわうカンボジア有数の観光地になった。アンコールワット観光の起点となるシェムリアップは、多くの外国人が訪れる観光の街として発展を続けている。
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カンボジアの内戦ではおびただしい人命(ポル・ポト時代は70万―300万人が虐殺されたといわれる)が奪われ、この内戦をめぐる取材ではベトナム戦争の33人(ベトナム人を入れると63人といわれる)を上回る36人の外国人ジャーナリストが命を失い、そのうち、11人が石山記者を含む日本人だった。こうした戦場ジャーナリストたちは、外国からの観光客でにぎわう現在のアンコールワットの光景を想像できなかったに違いない。
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写真 1、現在のアンコールワット遺跡 2、アンコールワットの背後に上る朝日を見ようと集まった観光客 3、石山記者の記録