小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

969 秋田で見た部分日食 戦後の3大誤報の1つは幻の皆既日食観測

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21日朝の「金環日食」は、秋田に出かけていたためテレビでした見ることができなかった。秋田市は晴れていて「部分食」を、サングラス3つを重ねて何とか見た。テレビの大騒ぎには驚いたが、一見の価値はあったのかもしれない。以前、日食をめぐって誤報があり、これが「戦後3大誤報」の1つになっていることを、誤報をやった当人から聞いたことがある。 戦後の3大誤報といわれているのは、朝日新聞の「伊藤律架空会見記」(1950年9月27日付夕刊、レッドパージで地下に潜行中だった共産党幹部に対する単独会見記だが、全くのねつ造だった)、長崎民友新聞の「日航機・もくせい号遭難事故で死んだ漫談家の談話掲載」(1952年4月10日付朝刊、伊豆大島三原山に激突した日航機事故で乗員、乗客30人全員が死亡したが、漫談家大辻司郎の危うく助かったという談話をねつ造掲載)、共同通信の「セイロンの皆既日食観測成功速報」(1955年6月20日、セイロン(現在のスリランカ)での皆既日食観測が失敗に終わったにもかかわらず、「成功」の予定稿を速報)―の3本だそうだ。
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このうち、3つ目の皆既日食観測成功という誤報をした当事者のAさんから話を聞いたのは、もう40数年前にことだった。当時、セイロンには日本から皆既日食観測のため観測陣が出て観測が成功すれば大きなニュースになるといわれていた。共同通信は成功と失敗の予定稿を作って、その結果を待っていた。しかし現地からの無線がなかなか通じない。たまたまセイロン放送が「見える、見える。火炎に包まれた・・・」と放送していたため、これを聞いたAさんは、観測がうまくいったと勘違いし「成功」の予定稿を流してしまったのだそうだ。実際には現地は悪天候のため、日食の観測はできなかったというのが真相だ。速報を焦るあまりに確認を怠った誤報だが、テレビが生中継をする現代から見ると、信じられないような誤報ではある。Aさんは記者人生の最大の失敗だったと話していたことを覚えている。
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日本では、1948年5月9日、北海道の礼文島皆既日食に近い金環食が観測された。この天体ショーには日米1500人の科学者による観測チームが編成されたというから、小さな島は大騒ぎだっただろう。それから7年後のセイロンでは肩すかしを食ってしまったわけだが、Aさんが存命だっただったら今回の金環食は感慨も一入だったに違いない。
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被災地を除きテレビがアナログから地上デジタル放送に完全移行したのは昨年の7月24日のことだが、デジタル化されて以降、最も映像的に効果があったのは今回ではないか。そのデジタル化に巨費を投じ、苦しいはずのNHKは受信料収入の伸びで大幅黒字になっている。そして数土(すど)文夫という経営委員長はなぜか、東京電力の取締役への就任を受諾して批判を浴びている。数土氏は「李下に冠を正さず」という言葉を知らないのではないか。
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写真 1、秋田の日食の空 2、男鹿の入道埼 3、旅の途中で見た雪を抱いた鳥海山 4、男鹿半島の海岸から 5、男鹿半島・寒風山から見た秋田市