小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

968 棚田にて ある青年との出会い

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傾斜地に続く棚田は日本を含めて世界各地に存在する。その中で唯一、世界遺産文化遺産)になっているのがフィリピン・ルソン島の「コルディリェーラの棚田」である。しかし若者たちが村を離れて行き、3割の棚田が後継者不足のため耕作放棄地となって荒廃が進んだとしてこの棚田は「危機遺産リスト」に登録されている。日本国内に数多く存在する棚田もコルディリェーラの棚田と同様、耕作放棄地が増加し美しい景観が消えつつある。そんな棚田を守ろうと一途な行動をしている一人の青年に出会った。 以前、クロアチアドブロブニクに行ったことがある。旧市街は「アドリア海の宝石」といわれ、城壁に囲まれた赤い屋根と白い壁の中世の美しい街並みが残り、世界遺産にも登録されている。しかし1991年、旧ユーゴの内戦のために7割の建物が爆弾によって被害を受け、危機遺産に登録されたのだ。平和が戻ると市民が総出で復興に取り組み、海外から石工などのボランティアも協力して数年かけで以前の街並みに復元され、1998年には危機遺産リストから除外された。一方、コルディリェーラの棚田は、残念なことに現在もこのリストに残ったままなのだ。 一途な行動をしていると私の目に映った青年は、兵庫県中央部にある神崎郡市川町で失われつつある棚田の再生に挑戦している永菅裕一さん(27)だ。永菅さんのような青年がもしフィリピンにいたら、コルディリェーラの棚田が危機遺産リストから外れるのに、そう時間がかからなかったかもしれないと思う。 農水省は1999年7月、日本の「棚田百選」を発表した。117市町・134地区が指定されている百選の中に兵庫県には香美町の「うへ山」と「西ヶ岡」、佐用町の「乙大木谷」、多可町の「岩座神」という4地区が含まれている。永菅さんは、姫路工業大学4年生の時、卒業研究の一貫で香美町に行き、うへ山の棚田を見た。「天の啓示」という言葉があるが、まさしくこの棚田との出会いは「天啓」だった。 うへ山の棚田は香美町小代区貫田地区にあり、地滑り地のあとに作られた棚田といわれる。夕暮れ時、その棚田が赤く夕日に染まり、その美しさに感動したが、地元の農家の「後継者がいないために、このままではあと5年でこの棚田がなくなってしまう」という言葉が心に残った。それが永菅さんを棚田に関する活動に駆り立てる原動力になったというのだ。大学内で立ち上げた棚田保全・再生活動のためのサークル「棚田LOVER’s」がNPOになったのは、永菅さんが大学院を出てから、市川町内の農家で2年目の研修を終えた2010年のことだ。大学・大学院で環境問題を学んだ永菅さんは農業に取り組むために、農家の先輩に教えを乞うたのだ。百選には選ばれなかったが、同町にも棚田があり、そこを活動の中心にした。 棚田で収穫した米はおいしいといわれる。場所は山間地であり、昼夜の温度差が大きいため稲の育ち方がゆっくりとしており、山からの清流には微量元素も含まれ、香りや艶もよく、粘り気もあるそうだ。永菅さんは市川町や香美町を中心に「棚田米のおいしさ」を知ってもらおうと試食会と販売、田植え・稲刈り体験、シンポジウムやフォーラム、貸農園での野菜の栽培などを続けている。 私の故郷近くにも棚田があった。いまの季節には田植えがあり、秋には実った稲穂が黄金色に輝いた。だが、その棚田も減反政策や人手不足の結果、いつしか雑草が生える荒れ地になってしまった。このようになった旧棚田が復元されることはなく、他の地域にも共通する日本の現実ではないか。 永菅さんと一緒に暮らしている祖母は「この子のやっていることは私には分かりません」と話し、棚田のことを知らない都市の人間には、永菅さんの活動はやせ馬で風車に突っ込んだスペインの小説「ドン・キホーテ」の主人公のように見えるかもしれない。だが、これまでの着実な活動を見ると、棚田を次世代に残したいという永菅さんの思いが半端ではないことを実感する。 最近会った私の知人は、長年暮らした東京を離れて近く山梨で再スタートをすると話した。彼は新聞記者としての半生を送り、定年後も報道機関で仕事をしていたが、山梨の生家に戻って農業に取り組むのだそうだ。「簡単に野菜や米ができるとは思えないが、やってみることにした」という知人の話を聞いて、自然の中で日々を送る彼の暮らしぶりが目に浮かんだ。 大都市への一極集中化が進む日本だが、永菅さんや知人のような、土を相手に生きる人たちが地方にいることは心強いことだ。