小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

952 障害者支援を貫いたある人生 末期がんと闘ったYさん

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知人の女性がこの2月、がんで亡くなった。末期のがんに侵され入退院を繰り返しながら、仕事に最後まで情熱を注いだ人生だった。2月初めに入院し、ついに仕事に復帰することはできなかった。 彼女が末期のがんに侵されているとは知らなかったから、他の人も交えて札幌や横浜を一緒に歩いたことがある。せっかちな私はみんなを急いで歩かせた。その中の一人は重い病気と闘っていたのだ。Yさんだった。 昨年10月下旬、私はYさんらと一緒に函館と札幌に行った。北海道は紅葉の季節が残っていた。札幌で生活経験のある私は、札幌に行くと黄色く色づいた美しいイチョウ並木をYさんらに見せようと、北大の北13条通りに案内した。380メートルにわたって70本のイチョウがあり、カメラを構えた人が目についた。空気が乾き、イチョウの葉がサラサラと落ちるようなそんな日だった。 Yさんは明るい表情で歩いている。私がカメラを構えると、さらにこぼれるような笑顔を見せた。Yさんの病状を知らないから、その後も北大構内から札幌駅北口までかなりの距離を歩かせてしまった。 この後12月になって、さらに横浜の坂道を一緒に歩いた。北海道と同じメンバーだった。坂道の多い横浜で運行している高齢者向けのコミュニティバスの視察が目的だった。この時もYさんの病状は知らないから、私のペースであちこちを歩き回った。いま思うと、抗がん剤の影響で顔はいつも赤く、腫れぼったい印象があった。 Yさんは、障害者支援をライフワークにしていた。東日本大震災で犠牲になった障害者の割合は健常者の2倍だというが、Yさんは自分の命の火が消えることにおびえながら、被災地の障害者支援に気力を振り絞った。 Yさんの命がが燃え尽きたのは、自分が支援した、福島原発で千葉県鴨川市に避難していた障害者のためのホームが福島県田村市に完成し、障害者が移り住んだ直後のことである。Yさんのことだから、亡くなる直前まで障害者のことを思っていたに違いない。 季節外れだが、かつて一緒に歩いた北大の写真を載せる。Yさんへの追悼への思いからだ。Yさんが生きていたら、美しいことしの桜を見て、楽しそうに笑うだろうと思う。 Yさんよ、安らかに。