小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

944 北京を歩く(1) 人で埋まる万里の長城・女坂

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初めて中国の土を踏んだのは、28年前の1984年6月のことだ。当時の備忘録を見ると、成田から上海上空を経て、北京というルートで、飛行時間は5時間かかっていた。現在は、新潟から韓国上空を飛んで北京に行くという短縮ルートのため当時よりも3時間55分と1時間も速くなっている。中国は近くなったのだ。 5日間の日程で北京を訪問した。3回目の北京だ。その激しい変化ぶりはテレビで見ていたが、実際目にすると、驚くことが多かった。 当時の記録には北京空港から市内に至る道路はどこまでも直線が続き、時折馬車も走っていて、その馬車を私たちの乗った車は大きく迂回して追い越したと書いてある。さらに、北京市内は煉瓦造りのいまにも崩れ落ちそうな古びた家々と新しい鉄筋建てが同居していると街の様子を記録したあと、作家になる前、北京駐在の記者だった辺見庸が私に「北京はさま変わりした。腐敗が進行し、ひどくショックを受けている」と、北京の様子を話してくれたことも書いてあった。 鄧小平による経済重視の改革開放政策の中で、腐敗の芽も確実に伸び始めていたことを辺見庸は見抜いていたのだ。それにしても北京は変わった。2008年の北京五輪がさらにそれに輪をかけた。あの煉瓦造りの家は全く姿を消し、高層ビルが林立する街になっている。自転車の洪水だった道路は車が占拠し、自転車はまばらである。確実に中国は発展したのだろう。
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万里の長城は、その象徴ではないか。もちろん長城自体に大きな変化はないが、観光客の数は昔の比ではない。28年前、そして20年前の北京訪問で長城まで足を伸ばしたことを記憶している。いずれも高速道路はなく、未舗装道路を北京中心部から八達嶺までは砂埃の中を車で4、5時間かかった。現地に到着すると、私たち数人の日本人と米国人しか姿はなかった。あちこちに犬の糞やごみが散乱し、臭気もひどく、長城に対し、いい印象は残っていなかった。 だが、今回は違った。1998年に八達嶺高速道路が完成した後は、北京の中心部から約90分で八達嶺に行くことができるようになった。北京だけでなく中国全土から観光客が押し寄せ、女坂(反対側に男坂があるが、急こう配で景色もいま一つだという理由で女坂に比べ人気はないようだ)の混雑ぶりは、まるでラッシュ時に山手線に乗ったようなものだった。人は押し合い、へし合い、途中で写真を撮り、食事をしている。だから上に進むのは容易ではない。妻と2人で、女坂を上り、一番高くて、これ以上はストップという地点まで行き、しばし立ち止まる。すぐそこに青い空がある。この空は日本の被災地へと続いているのだと思う。
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人込みを縫うように下り続け、出発点まで戻るのと70分が過ぎていた。同行の大学生は、混雑の中をすいすいと抜けて走るように上り下りして、女坂、男坂の双方を78分で行き来した。若さというものだろうが、景色を楽しむ余裕は彼にはなかったのではないか。
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万里の長城は、秦の始皇帝時代から建設が始まった長さ8851、8キロ(2009年4月・中国政府の発表)に及ぶ外敵に備えるため構築されたといわれる構造物だ。1987年に世界文化遺産に登録されている。私が初めて訪れた当時は、世界遺産に登録される前のことだった。それにしても、人の多さには驚いた。そういえば、富士山も最盛期には大勢の登山客が詰め掛けて混雑するというから、似たようなものなのかもしれない。 胡耀邦の死をきっかけに、民主化を求めて天安門広場に集まった学生や市民に対し、人民解放軍が武力弾圧をした天安門事件が起きたのは私が初めてこの国を訪れた年の5年後のことだった。その天安門は地方からやってきた中国の民衆でにぎわっていた。(以下、次回)   写真 1、北京市内から見た夕陽 2、混雑する女坂 3、途切れない人の波 4、女坂から見た男坂 (追記)中国政府は2012年6月、再調査の結果、総延長は8851キロの倍以上の2万1196キロと発表した。