小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

804 ホラ吹きと大風呂敷 四重苦を救うのは・・・

東日本大震災阪神淡路大震災を超え、近世では1923年9月1日の関東大震災に次ぐ災害になることが確実だ。巨大地震と大津波原発事故に加え風評被害という「四重苦」をもたらした災害。被災者を救おうという国民的声が高まり、被災地には多数のボランティアが駆け付けている。

戦後最大の危機といわれるこの災害を乗り切るために、関東大震災当時「ホラ吹き」と「大風呂敷」といわれながら、地震学の発展と東京の復興に寄与した2人の人物がいたことを記したい。

「ホラ吹き」といわれたのは、地震学者の今村明恒(1870年6月14日―1948年5月16日)だ。今村は東京帝国大学理科大学(現東大)の地震助教授時代の1905年、今後50年以内に東京で大地震が発生し、東京は大火災に見舞われるという論文を発表。上司に当たる大森房吉教授らからは根拠のない説と攻撃され、「ホラ吹きの今村」とさえ中傷された。当時の地震学で第一人者だった大森は震災に対する備えの必要性は認めながら、今村説がセンセーショナルに取り上げられ、社会的に混乱することを恐れて、今村説を否定し続けた。

結果的に今村の説が当たって関東大震災が起き、大火災により十数万に及ぶ死者・不明者が出る大災害になる。大森は震災後に脳腫瘍で亡くなるが、今村を震災予防調査会の幹事に推薦したことをきっかけに今村との対立関係は消え、今村は地震予知や震災防止の啓もう活動に大きな役割を果たす。津波から住民を守ったという史実「稲村の火」を教科書に載せることにも力を尽くした。

関東大震災後、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣、帝都復興院総裁を兼任していた後藤新平は廃墟同様になった東京の復興計画をつくった。後藤新平は当時の国家予算1年分(13億円)に相当する巨費で東京を改造すべきだ主張、「大風呂敷」と呼ばれた。財界などの猛反対で承認された予算は半分以下となり、計画は大幅に縮小されたが、現在の東京の都市としての骨格は後藤新平の立案だ。

スケールの大きい後藤新平の計画に対し、当時それを受け入れるだけの度量は政財界にはなかったのだ。今回の震災の復興では後藤のような人物が出るのだろうか。政府は復興構想会議を設置して、建築家の安藤忠雄さんら有識者と宮城、岩手、福島3県の知事を加えた15人のメンバーを発表した。6月末をめどに基本的な提言をまとめ、復興経費を盛り込む補正予算案に反映させるのだという。

そのメンバーは以下の通りだ。

▽議長・五百旗頭真防衛大学校長)▽議長代理・安藤忠雄(建築家)、御厨貴(東大教授)▽特別顧問・梅原猛(哲学者)▽議員・赤坂憲雄学習院大教授)▽内館牧子(脚本家)▽大西隆(東大大学院都市工学専攻教授)▽河田恵昭(関西大社会安全学部長)▽玄侑宗久臨済宗福聚寺住 職)▽佐藤雄平福島県知事)▽清家篤慶応義塾長)▽高成田享(仙台大教授)▽達増拓也岩手県知事)▽中鉢良治ソニー副会長)▽橋本五郎(読売新聞 特別編集委員)▽村井嘉浩宮城県知事)

知事を除いて政界からメンバーが選ばれていないのはなぜだろうか。具体的な青写真を描ける政治家は存在しないからだろうか。(現代の政治家は政争だけが仕事のようだ)多くの被災者は、後藤新平が広げたような大風呂敷的復興計画とまではいわないまでも、生きる希望を持てるような具体的な復興に関する提言をしてほしいと願っている。復興構想会議のメンバーは、そのことを決して忘れないでほしいと思う。